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ハワイ報知新聞の一番の新米記者が私です。編集部に入ってまだ二カ月にもなりません。「潮流」欄に今回初登場になりました。どうぞよろしくお願いします。
すでに失敗をたくさんしました。新聞を読むのと、書くのとでは全く違う事が分かりました。記事の言葉遣い、用語の間違いは編集長に指摘され気が付く毎日です。
一番大きな失敗をした時はうなだれました。取材に協力してくれた人の言葉を理解して書いたつもりが、事実誤認で迷惑までかけてしまいました。自分の勉強不足、知識不足に自分を責めました。人の言葉を正確に聞くことは本当に難しいと知りました。以来、その記事をデスクに張って二度と同種の失敗をすまいと心に掛けています。
取材は一番緊張し、同時に一番勉強になります。新年号では、「日本文化・武道一日入学」というテーマでいくつかの団体におじゃまして、写真を撮り、インタビューし、実際に体験させてもらいました。
各団体の先生やメンバーからお話しを伺って、いつしか取材であることを忘れ感動した事もたびたびありました。一人一人に歴史があり、世界があり、素晴らしい才能を持った方にただ脱帽でした。
実は、新聞記者になる前、同じハワイ報知の日本人ツーリスト向け雑誌を担当していました。ワイキキで汗を流しながら日本人ツーリストにインタビューもしました。「なぜハワイが好きなのか」と聞くと、「ハワイのさらさら空気が好きでハワイに来ます」と異口同音に答えが返って来て驚きました。インタビューして初めてハワイの空気のありがたさに気付きました。
ついこの前のホノルル・マラソンでも完走者にインタビューしました。新聞記事にはなりませんでしたが、ある日本の中年夫婦の笑顔が忘れられません。ゴールした二人は手をつないで歩いて来ました。あまり仲が良いのでお話を聞いたら理由を説明してくれました。ご主人の六十歳の記念に普段マラソンをしない奥さんがマラソン好きなご主人のため一緒に走ったというのです。日本のこの世代の夫婦は手をつないで歩くことは滅多にありません。奥さんの愛情に対する、ご主人の素直な感謝の姿勢だとすぐに分かりました。
新米記者は失敗したり、落胆したりしています。でも、こんなにたくさんの素晴らしい人たちに会えるのだから、一所懸命続けていきたいと思っています。
ハワイに長く住んでいるかどうか分かる方法を発見した。ジャンケンだ。ジャンケンをする時、手を横に振るか、縦に振るか。横に振る人はハワイに長く住んでいる人だ。子供達を見てそう思う。
私はハワイに来てまだ四年しかたっていない。だから、ハワイに来た時の様々な文化ショックを良く覚えている。我が家の子供達はハワイに来た当初、ジャンケンは手を縦に振っていた。今、小学生の末娘は迷わず横だ。
次の〃ハワイに長いか分かるテスト〃は、指を使って数を数えることだ。「一、二、三、四」と数えてみる。開いた指を内側に折り曲げながら数える人は日本から来た人だ。握り拳を作ってから親指を開き、人差し指を開いていく人はハワイに長い人だ。末娘はもちろん開きながら数える。
第三のテストは、人を呼ぶ仕草。手のひらを下にして指を動かし「こっちにおいで」と呼ぶのは日本から来た人。手のひらを上に向けて指を動かし呼ぶのはハワイに長い人。末娘にハワイ式で手招きされると何となく落ち着かない。
文化とはおもしろいもので、その世界にいると最初は不思議に見える。いつしか当たり前になる。やがて愛着が生まれる。
ハワイに来た当初、年輩の方達が「食べなさい」と食事を勧めてくれたが、びっくりしてしまった。叱られているように感じた。
私の勝手な想像だが、「食べなさい」には日本人移民の長い歴史が込められた言葉ではないかと思う。英語の言い回しで、強い指示命令も、丁寧な勧めも命令形が使われるが、その影響を受けて日本語が英語風の命令文になったのではと思っている。これも私の勝手な推測だ。あるいは、日本のお国言葉が残っているのかもしれない。
今では「食べなさい」と言われると、分けて下さる方の親切が素直に身にしみて、「はい、ありがとう」と言っている。この前自宅の夕食の席で、「食べなさい」と言っている自分にさえ気がづかなかった。「食べなさい」はハワイに根を張った温かく思いやりのある言葉だ。
私にはちょっと変わった悩みがある。
日本でのことだが、家内と子供達で大きな公園に遊びに来ていた。近くを運動着姿の中学生達が通り過ぎた。どうやら絵を描くために来ているようだ。私の顔を見て、ちょっとびっくりしてから挨拶をして通って行った。
「あの子たちに、どこかで会ったかな」と考え込んでいると、中学生達がしばらく歩いて、「あっ、間違えた」と言ってお互いに笑い出した。どうやら、学校の先生と間違えたらしい。
私の顔は、どことなく誰かに似ている顔なのだろうか。
次の場面はやはり日本での事だが、電気屋さんで商品を見ていた時だ。「あのー、○×はどこですか」と見知らぬ婦人が聞いてきた。明らかに店員と間違えている目だ。「すみません。私はここの店員ではないんです」と言うと「あっ、そう、ごめんなさい」とツンとして行ってしまった。怒りたいのは私のほうだ。
この他にも何度か間違えられた経験があった。
ハワイに来て数年たってコンプUSAでコンピューターを見ていた。ローカルの男性が「マッキントッシュのコンピューターにはこのコードがつながるか」と英語で聞いてきた。私は知っていたので「これを使えばいい」と答えた。
後で改めて考えた。彼は私をコンピューター仲間として聞いてきたのか。それとも店員と間違えたのか。
私は細身で寒がりなので、店に行く時は半ズボンでなく、長ズボンで行く。たいていはアロハシャツだ。なんとなく店員風のかっこうになる。
根が真面目なので、店にいても、買い物客としてのリラックスした雰囲気があまり出ない。これが店員に間違えられる理由かもしれない。
確かに私は、棚から落ちた商品を見ると、拾って並べてしまう。曲がっているとつい直したくなる。知らない商品や、興味深い物は「ふーん」と納得しながらじっと観察してしまう。それがいけないのかな。
とにかく、ここはハワイで、日本ではない、もう間違えられることはないと安心してKマートで買い物をしていた。
商品棚の向こうから見知らぬローカルのご婦人が早足で方向を変え私の方に近づいてきた。私の顔をしっかり見ている(まさか!)少しおこったようにこう言った。「ウェアリーズ○×□△」(そんな!)
小学校時代の私は、丸顔で、前髪をまっすぐに切りそろえた少年だった。眼鏡はしていなかったが、まるで漫画のドラエモンに出てくる「のびた君」のような顔だった。
生まれ育った場所は東京に近い埼玉県の町で、近所の田んぼや畑や雑木林で遊んでいたのが、どんどん宅地化され最後は路地や校庭、公園しか遊び場がなくなった。
だから、ふるさとの山や川、まして海は私にはない。
そんな私が、小学三年頃に父の実家を訪ねて長崎まで旅したことがある。当時は新幹線もなく、夜行に揺られての長旅だった。
九州の太陽は強烈に照っていた。親戚のお年寄りが私を喜んで迎えてくれたが、通訳がないと分からないほどお国なまりが強かった。
「泳ごう」と誘われて、従兄弟たちや近所の子供と浜に出かけた。
坂を走り下ると、ぬーと牛が顔を出してぶつかりそうになる。つまらなそうに黒い顔をこっちに向けた。「でっかい顔!」とつい言い放った。
牛をよけてまた走り、浜に着く。堤防に囲まれたひとかかえほどの静かな入り江には小さな漁船がのんびり揺れている。潮の香り、波の音、絵に描いたような入道雲。
海の子供は泳ぎが上手い。当時二十五メートルのプールを泳ぎ切れない実力だったのに。つられて無謀にも岩から海に飛び込んだ。しばらく楽しく泳いで遊んだ。疲れてふと立ち上がろうとしたが、足が立たない「かなり深いぞ!」と急に不安になり、おぼれた。
「助けてー」の声も出せないほどあせって、もがいた。いとこの康ちゃんは、最初私がふざけていると思ったようだ。
ホントに溺れていると知ってあわてて助けてくれた。しがみつく私を康ちゃんは上手に岸まで連れて行ってくれた。私はからい塩水をいやと言うほど飲んで、ぐったり浜に倒れた。
その夜、ささやかな海の幸を囲んだ夕食の席で皆に笑われた。「東京の子は泳ぎもまともにできないね」。私は小さくなってさしみをつまんだ。でもみんなの目元は笑っていた。「生きてて良かったね」と口々に言ってくれた。
寄せては返す波のように、「生きてて良かったね」の声が時折私の心に戻ってくる。あの日の温かい励ましの言葉をこんどは私が言う番だ。
ハワイで子供を育てる時、英語だけで育てるか、日本語も使えるように教育するか。これは古くて新しい課題だ。
子供はアメリカに住み、生活していくのだから英語だけで充分という人。一方では日本人の血を引いているのだから、日本語を話せるようにしたいという人。二つの考えがある。
お母さんだけが日本人で、同居のお舅さんお姑さん、ご主人も英語だけという場合は、子供に日本語を教えるのは難しいだろう。
英語の上手なお母さんなら、子供と英語で会話しても違和感はないかもしれない。
でも、ご自分が歳を重ねて、「やはり子供とは日本語で会話したかった」と後悔している人はいるのだろうか。
ある日家内と一緒に電話加入のためショップに出掛けた。対応してくれたのが日系の二十歳代の女性で、最初英語だったが、流ちょうな日本語に切り替えてくれた。その日本語があまりにも美しいので思わず、「とても上手な日本語ですね。ていねいな言い回しも完璧です。特別に勉強したのですか」と尋ねると、「いいえ。尊敬語などはよく母に注意され、厳しく家で日本語を教えられました」と答えた。私はそのお母さんに会ってみたいと思った。
私の上の二人の子供達は中学で来布したので日本語は心配ないが、今小学三年になった娘が問題だ。娘は英語の本が大好きで図書館で本を借りて来ては楽しそうに何冊も読んでいる。この娘に日本の教科書を使ってひらがな、カタカナと少しの漢字を読み書きできるまで家で教えて来た。
「今日の箇所をちゃんと読んだの」なんて家内が迫るが、いやーな顔をしてなかなか動かない。
ハワイで日本語教育をしようとする親たちは必ずこの〃いやーな顔〃に出会っているはずだ。
そんなときに、日本経済新聞一月二十六日の記事に目が留まった。読み、書き、算数の基礎教育に頑固に十年取り組んだ兵庫県の山口小学校が、大きな成果を上げたという。一読して、これはハワイの日本語教育に応用できると思った。そして、校長先生や主導者の一人陰山先生とコンタクトが取れた。
次回潮流担当の時に詳しくご紹介したい。
【英語だけで育てた方や、日本語を子供に教えてきた方の経験などを、手紙か午後の時間に電話で教えて頂けたら幸いです。】
前回のこのコーナーに対して、さっそく読者から日本語教育についてのご意見を頂いた。
言語は単にことばにとどまらず、話す人の文化や自覚を作る重要な要素なので、日本語を教える必要があるとの主旨。日本語を教えなかったため、後に子供との会話で寂しさを覚えた人もいるとの事。
今後も様々なご意見をお待ちします。
一世の方々が二世に日本語を教えた時代と、今は様々な面で異なるが、いわば〃新一世〃の現代の両親にとっても大きな課題になっている。
◇ ◇ ◇
「日本語の勉強はつまんないなー」という娘の顔に直面していた私だったが、一月二十六日付けの日本経済新聞の記事を読んで希望が見えた。
その記事は兵庫県の山間部にある朝来町山口小学校が基礎教育に十年間地道に取組み、卒業生が国公立の医学部に多数合格するという現象に出会ったという。読み・書き・計算の基礎教育が生徒を見違えるように変えた。
自然や社会や人に触れ、自分の頭でよく考え、創造力を働かすことは教育の大切な柱だと思う。基礎学力は、その創造力を支える土台として不可欠なもになる。
娘に対して今までは「自分で読みなさい」と日本語教科書を与えるだけだった。親が情感を込めて先に読み、子供が後について読むという方法を学び実践した。すると今までになく上手に読んだ。
これを一日十分くらい、三、四日続けた晩のこと、電気を消したベッドの中で娘は急に教科書の文章を暗唱し始めた。五ページくらいの文章を全部言い終えてしまった。自分でも興奮して、「私にもできるんだね」と涙ぐんでいた。英語の暗唱は得意だったが、日本語でできた事が嬉しかったのだ。
正直に告白すると三日坊主で後は続いていないが、基礎教育の効果は強く実感した。
単調な基礎教育を支えるのは親や教育者の愛という事にも気づいた。子供を思いやる心と、成長への信頼が大切だ。基礎教育の実践は、愛の実践に他ならない。
モーツアルトは嫌いだった。
モーツアルトのピアノ協奏曲のCDをもらった時にはかなり困ってしまった。
プレゼントしてくれた人の手前、しかたなくCDに耳を傾けたが、私はいつの間にか引き込まれていた。私の先入観が間違っていた。
もちろん私は音楽の専門家ではないので評論などできない。ただ、好きで若い時から色々聞いてきた。
アシュケナージがピアノ・指揮のモーツアルトピアノ協奏曲第二十三番イ長調が私の聞いたCDだが、その二楽章がやたらに悲しく、暗い。
まずピアニシモで頼りなげなピアノ独奏が始まる。暗い部屋で膝を抱えて、ため息をつくような悲しみの旋律が胸を打つ。そのピアノ独奏が終わると、オーケストラ演奏に合わせて悲しみのメロディーが幾重にも私を包み込んでいく。
不思議なことだが、悲しみのメロディーに身を任せている間中、限りない暗さが私の痛みをいやしてくれる。
聞きながら思った。本当のモーツアルトはきらびやかなメロディーの中ではなく、悲しみの旋律の中にいるのかもしれないと。
ハワイに住む人には悲しみのメロディーがよく似合う。
夢を抱いて国際結婚をしてハワイに来た人がいる。しばらくは楽園だったが、やがては言い争いに明け暮れ、気がつくと孤独を噛みしめている人も多い。
一攫千金を狙って仕事で勝負した人もいる。成功した人たちも少数いる。こんなはずじゃなかったと負債を見つめる人もいる。
日本に愛想を尽かしてハワイに来た人もいる。今ではアメリカに愛想を尽かしているが、もう日本には戻れない。
悲しさをまとっている人には、ハワイはあまりにも明るすぎて残酷だ。ヨーロッパのどんよりした冬空や、イギリスの霧に覆われたほうがどれほど安らぐだろう。
悲しみのメロディーが人をいやすように、悲しみの人が私たちをいやしてくれる。耐え難い苦みを経験した人がそばにいてくれるだけで、心が安まる。悲しみの人は無言でメロディーを奏でてくれる。フォルテシモで意見を押しつけてくるようなまねは決してしない。元気な時には聞こえないピアニシモで弾いてくれる。
ハワイに住む人は、いつしかそんな悲しみの人になり、他の人を潤すメロディーを奏でているのかもしれない。
子供は父の後ろ姿を見て育つというが、私はその後ろ姿をほとんど見ていない。
父親の仕事は、海外航路の船乗りだった。今は引退して家にいて、社交ダンスのサークルでけっこう忙しい。
父は、貨物船やタンカーで世界のあちこちに出かけていた。一航海が三カ月から六カ月に及ぶ時もあった。そうなると、父のいない生活が普通になってしまう。
航海から父が久しぶりに帰ってくると、二、三歳だった私は「知らないおじさんが家に来た」と泣き出したという。父には悪いことをした。
母はよく父のことを笑う、「お父さんは前しか見てないのよ。一緒に歩いて家に帰るでしょ、途中に新しいお店ができたでしょと言っても、あーそうか、だもん」父は眉毛が濃く骨格のしっかしりた寡黙な九州男子だ。
「父さん。色んな国にいったんだね」
「ああ」
「どんな所に行った?」
「南米、ヨーロッパ、中近東、アメリカ、ハワイ、アジア、色々だな」
「どこの海が一番良かった」
「うーん、やっぱり九州の海だな」
エーゲ海とか、南太平洋を期待して尋ねたが、生まれ育った海がやっぱり世界一だった。
私が小学生の頃、父親参観日といって、お父さん達が授業を見に来る特別の行事があったが、たいてい母が来た。
「子供のころ親父が家にいなかったから寂しい思いをしたことがあったよ」、と父に言えたのは私が三十歳を過ぎた頃だった。その時初めて父の心に触れた。
「俺も淋しかったよ。久しぶりに家に帰っても、お前には泣かれる。やっと慣れた頃には海に行かなきゃならない」父は少し横を向いて話しを続けた。
「船に戻る事がお前に知れると、泣くんだよ。本当にまいったよ。それで、母さんと作戦を立てた。三人で一緒に電車に乗るんだ。お前は電車が好きだったからな。わざと朝の混んだ時間に乗って二、三駅を過ぎた頃にお母さんと目配せして、俺は人混みに紛れる。母さんはお前を連れて駅に降りて、反対行きの電車にまた乗る。俺はその後ろ姿を見ていたんだ」父はもっと向こうを見ながら話を終えた。
しばらく沈黙が流れた。もう私は何も言えなかった。私にも子供が生まれていたから、親の心も多少は分かった。
親父のほうが私より寂しかったんだ、と初めて気づいた。
父が私の後ろ姿を見ていてくれたんだ。ありがとう親父。
計算すると一日に八十五人が自殺していることになる。統計によれば日本の昨年の自殺者は三万一千四十二人だ。
一時間に三〜四人が思い詰めて死んでいる図式になる。その上、四年連続で自殺者が三万人を越えている。無視できない異常な数だ。
昔と違って自殺するのは若者より中高年の男性が多い。借金苦、仕事上の悩み、心の病、出口のない重荷にあえぐ父親の姿がそこにある。
子供が一人か二人いて、働き盛りのお父さんがいる家庭を思い浮かべてみる。ある日一家のあるじが首吊り自殺し、残された妻が呆然となり、子ども達が悲嘆に暮れる姿が目に浮かぶ。
自殺者三万人X残された家族三人=九万人が失意の中にこの瞬間もある。四年連続の統計なので、三十六万人が身近な家族を自殺で失い、今もうめいている計算だ。
「死ぬなよ。絶対死ぬなよ」
私は一人の高校生に何度もそう話しかけていた。日本でのことだ。彼女の父親は仕事で悩み、最後には焼身自殺をしてしまった。悪いことに火が自宅に燃え移り全焼してしまった。私はその子とお母さんと一緒に焼け跡の片づけを手伝った。くすぶった煙の臭いを今も覚えている。焼け残った生活用品が放水で濡れ痛ましかった。
悪いことは続く。数日後、お母さんはご主人の後を追ってみずから命を絶った。
一人っ子の女子高校生が残された。住む家も無い。
「死んじゃだめだ。どんにつらくても生きるんだ」と話したが、聞いてる目はうつろだった。その後は学校教師、専門カウンセラー、友人、親戚がその子を支えた。死んだ方が楽だと何度も思っただろう。でも最後にはつらくても生きていく道を選んでいった。
自殺遺児を援助する団体〃あしなが育英会〃に寄せられた二十歳の男子大学生の言葉は心に響く。
「私自身も自殺で父親を亡くしました。借金を抱え、自殺していきました。
私はどんなことがあっても生きていてほしかった、どんなに苦しい生活でも一緒に暮らしていきたかった」
「今もし自殺を考えているお父さんやお母さんがいたら聞いてください。今は確かに辛いかもしれません。今、希望は見えないかもしれません。
それでもあなたを思う家族がいるから、絶対に死なないでほしいと思います」
うちの子は内弁慶で困りますと言う人に会うと、握手したくなる。
最初に生まれたのが女の子だった。母親も、父親も初心者。私は壊れ物のようにおっかなびっくり抱き上げた。
幼児の定期検診の際、
「ちょっと歩くのが遅いですね。詳しく調べましょう」と保健婦に専門病院を紹介された。私たち夫婦には突然の事だったので驚いた。
紹介された病院で、医師は泣きじゃくる娘の片足をつかんで逆さまにつり上げ、足の動きを調べた。私はかわいそうで見ていられなかった。「これから注意深く観察していきましょう」と実験動物のように医師に言われた。
娘は平均より遅かったが歩けるようになった。ほっとして、近所の公園に出かけた。私と家内と娘で砂場に向かったが、すでに子供やお母さん達がいた。その子達を見たとたん娘はピタッと止まった。
棒のように固まった。立ったまま動かない。押しても引いても動かない。「ほら、砂でお山を作って遊ぼうよ」と言ってもだめ。
しばらく放っておけば遊ぶだろと見ていたが、何分間もじっとしている。しかたなく子供のいないブランコや滑り台に連れていくと、なんとか遊びだした。
何回か連れて行けば慣れるだろうと思ったが、本人の意思は鉄のように強固で、人がいればその度に固まった。
固まるのが好きな子だったが、年齢が上がるにつれ、変わって行った。
幼稚園の先生は、「この子にはこの子のペースがありますから」と外遊びより絵を描くのが好きな娘を受け入れてくれた。良い先生に出会ったと今も感謝している。
ハワイに来た時長女は中学三年った。英語で苦労したが、芸は身を助けるで、絵の表現力が幸いして宿題も良い成績をもらえたし、絵で賞をたくさんもらえた。
高校生になった娘は学校に美術クラブまで作ってしまった。絵画クラスで助手をした時は、シャイな子も元気な子も個性を大切にして励ましたので人気があった。この八月からは大学に入って絵画を勉強している。
今思うと、小さい時は外見としては固まっていたが、娘の内面では何かが動いていたに違いない。その蓄積が今溢れるような色やデザインに結晶しているように思える。
早く咲く花もあれば、遅く咲く花もある。
〃まぶしい透明感〃、ジェイクの新しいCDアルバム〃サンデー・モーニング〃を聞いて、この言葉が浮かんだ。
ハワイの若手ウクレレ奏者ジェイク・シマブクロの新しいCD〃サンデー・モーニング〃が十月二十二日に発売された。宣伝のためでなく、依頼されたからでもなく、CDを聞いて感想を書かずにいられなくなった。
ジェイクはピュア・ハート時代にナ・ホク・ハノハノ賞を二度受賞し、コロンを結成した時にもまた受賞、今回のアルバムもきっと高い評価を受けるはずだ。
今年夏には念願の日本デビューも実現し、日本人ファンも増えた。
ジェイクのウクレレを聞いたことがないという人は、CD最後の曲〃クレイジーG〃を聞くといい。この曲だけは実況録音なので生の雰囲気がそのまま出ている。テンポの良い曲が始まるが、観客のリクエストに応えてジェイクはどんどん弾き方を速くする。その演奏テクニックにはただ脱帽である。
びっくりした後は、CDの最初からゆっくりと聞くと良い。ラテン、ジャズ、ボサノバ、ポップス、クラシックとジェイクはあらゆるジャンルに挑戦している。
二曲目は、パガニーニのバイオリン曲をウクレレで演奏している。
四曲目のCDタイトル曲〃サンデー・モーニング〃は、土曜夜遅くまで遊び明かした翌朝の歌ではなく、希望と喜びにあふれた朝を軽快に表現している。
五曲目は映画〃タイタニック〃のテーマ曲。小さな楽器ウクレレの表現可能性に驚かされる。まことにダイナミックに歌い上げる。
九曲目は、〃クロース・ツゥー・ユウー〃で、このCDの白眉といえる。カーペンターズのヒットで有名な曲。伴奏無しのジェイクの独奏で、アコースティックなウクレレの音色が心に染みる。CDプレーヤーのボリュームを上げて聞いて欲しい。そうすると、ピアニシモの時の指先のタッチまで分かる。控えめな想い、恥じらい、ときめき、解き放たれた情熱、素直に見つめる瞳、恋人達の心の動きなどがみごとに表現されている。
卓越した演奏技術を後ろに隠し、伝えたいメッセージを前に出す。最近の流行歌作りの対極に位置する真摯でピュアなジェイクの姿勢に感銘を受ける。ジェイクはハワイの宝だ。
手前味噌だが、ハワイ報知新年号で、ジェイクの特集も行う予定。
その中年男性は若者の腕時計に目が釘付けになり、軽いめまいを覚えたようだった。
「すまないが、ちょっと君の腕時計を見せてくれないか」
見知らぬ男からの急な申し出に青年は最初驚いたが、質問の意図をすぐに見抜いて「いいですよ。でも偽物ですよ」と言葉を添えた。
男性は腕時計を手に取って、凝視した。「確かに偽物だ」と安堵したが、「しかし良くできている」と恨めしそうだった。
東京のアメ横で二千円かそこらで買ったブランド腕時計の偽物だったが、新品は二万ドルもする。若者はニセ物で充分幸せだった。これは価値観の違いだろう。
私は以前、日曜の新聞折り込み広告をよく見ていたがこんな気持になりやすかった。
〃これ欲しいけど買えないな〃何となく幸福観が薄かった。
「もうちょっとお金があれば」なんて考えていた。
最近は新聞の折り込み広告を見なくなったせいか、何だかとても幸せになってきた。元々欲しい物はそんなに無いし、どうしても必要な物は特にない。ショッピングにもあまり行かなくなったが、物を見ないと購買欲も出なくなる。
もちろん毎日のように便利な新製品が発売され、流行の洋服も店に並ぶ。皆が物を買うことで資本主義経済が繁栄しているという基本的経済知識は持ち合わせているが、大量消費社会が行き過ぎていると思えてならない。
アメリカ式大量消費価値観は、本当に正しいのだろうか。
高価なモノを所有していることが本当の幸せだろうか。人よりたくさん給料を稼ぐ人がそんなに偉いのだろうか。
フィリピンの田舎を訪ねた事をふと思い出す。庶民の家の中には、何もなかった。生きていくための最小限の備品しかなかった。
田舎のもっと田舎の集落に、小さなよろず屋がスーパーマーケットの役割を果たしていたが、わずかな品揃えの中に必ず瓶入りのコーラが置いてあった。本来必需品でない物が高価な値段で陳列され、人々の購買意欲を刺激したり、ため息をつかせたりしていた。
私が一本コーラを買ってグイッと飲んだ時に感じた回りの人の強い視線を今でも忘れない。
消費社会の価値観でなく、共産主義の尺度でもなく、世界がみんなしあわせになれる生き方があるはずだ。
この欄に〃新米記者奮戦記〃を書いてちょうど一年になった。
私にとって新しい仕事がこの一年で増え、同時に新たな失敗も生まれた。
▽「天気欄の満潮と干潮の時刻が違いますよ。海に行って分かりました」と電話でお叱りを頂いた。「すみません。気を付けます」と電話口で思わず頭を下げてお応えした。小さな数字情報の一つ一つをきちんと確認せねばと肝に銘じた。
▽日本舞踊の新しい名取りの方々にインタビューして記事にした事があったが、肝心の名前を間違えてタイプしてしまった。お話を伺った時は、名取り試験までの稽古努力を聞いて感激し、すぐにコンピューターにメモした。その時の感激に気を取られ、入力した名前が誤変換していたのに気づかずに、最終原稿でもチェックミスを犯してしまった。そんな時、顔から火が出そうになり、コンピューターの前でしばらくうつむき、電話でお詫びをした。
▽旧暦の暦をあらかじめ知りたいという読者の要望が出た事があった。それで一週間分まとめて暦を載せるようにと編集長が判し、現在私が担当している。読者の要望に対応できる新聞でありたいと思う。
▽ついこの前はウクレレ奏者ジェイクのCDアルバムの感想を書いたが、匿名の読者から真新しいCD六〜七枚が送られて来た。「ウクレレの事、ハワイの事を勉強してハワイをエンジョイして下さい」と手紙が入っていた。
届けられたハーブ・オオタ氏のウクレレCDを早速全部聞かせてもらった。〃ウクレレの神様〃と呼ばれる優れたウクレレ奏者オオタサンの事は以前から承知していたが、演奏の年輪、ゆとり、深さを楽しませてもらった。
▽ハワイの空が眩しすぎると書いた時には、電話で「私と同じ気持ちを表現してくれた」と共感を頂いた。
▽子供が寝静まった後に私のこのコラムを読んで声を殺して笑い転げたというご婦人の感想も聞かせてもらった。
▽取材に出かけて会合が終了するのを待っていた時、一人の男性が近づいてきて、「あんたはハワイ報知の人か。写真で分かる。いつもあんたの潮流を読んでいる。続けて頑張ってな」と励まして下さった。
▽この一年間でたくさんの人にお会いし、貴重な話を聞かせてもらった。たくさんの感動と笑顔をありがとうございました。
車のトランクをねらった窃盗事件がホリデイ・シーズンに頻発している。
日本から来たパパとママと女の子二人の家族がハワイ滞在中に被害に遭った。
十二月第二週目の夜、パールリッジのショッピング・モールで買ったばかりの品物をパパ達は注意深くトランクに収納した。車をパーキングに残して買い物を続け、数時間後に戻ってみるとトランクの中身はきれいに盗られていた。
日本ならすぐ110番だが、ハワイでは勝手が違う。普通の日本人観光客には911の番号すら分からない。
その家族はハワイの友人に電話して事件を伝え、ポリスとのやり取り、レンタカー事務所での交渉等に立ち会ってもらった。
レンターカーの担当者は「今日だけで同様な被害が十一件ありました」と涼しい顔で言う。この会社だけで十一件ならオアフ全体で大変な数になる。
ハワイで撮った思い出のビデオ・テープまで一緒に盗まれ、口惜しい気持ちで一家は帰国した。二人の子供たちは、ハワイの印象を聞かれるたびにドロボーの話を繰り返すという。ハワイに住む我々としても残念でならない。手口が卑劣だ。すぐ帰国して犯人を告訴できない日本人を標的にしている。
パーリッジの警備員によると同じような手口の窃盗は〃サウザンド!〃あるとさらりと答えたという。しっかりしてーなー、おっさん、とぼやきたくなる。
ノース・ショアでレンタカーを止め、美しい海をビデオに収めようと降り立った別の観光客がいた。車の近くでほんの数分ビデオを回して振り返ると、トランクの中身はもとより、レンタカーが無くなっていた。
今からでも遅くない。レンタカーを借りた日本人観光客に警告してあげよう。車内にも、トランクにも物を残してはいけない、と。窃盗犯の手口は、車のドアロックを数秒で外し、トランクを開けるのだ。
せっかく注意しても、「買った品物を全部持ち歩くのは大変」と嫌われたら、こう言ってみよう。
「少々お節介が過ぎる旅の爺です」
水戸から来た人なら、印籠を見せずとも必ず聞いてくれるはずだ。
チャンスがあれが、ずる賢い泥棒どもを捕まえて暴れん坊将軍のように言ってやりたい「自分がしてきた悪事がどんなに人を苦しめているか思い知れ」と。
車上狙いをハワイから〃成敗!〃して新年を迎えたい心境だ。
「ヒー、ヒー、フー。はい、後について」。おばさん先生がラマーズ法の呼吸を教えてくれた。
大きなお腹をさすりながら真剣に声を出す妊婦たちに混じって、私は小声で「ヒー、ヒー、フー」と発声した。クラスに男は私だけ。恥ずかしかった。とはいえ、今から約二十年前の日本では、かなり進んだパパだったと思う。
出産が近づき、産婦人科医に立ち会いたいと願い出ると、「かまいませんが、この前のご主人は卒倒されて対応に困りました。ご主人の面倒まで見ていられませんよ」と渋い顔だった。
卒倒しないためにも本を読んだり、クラスに通ったり私なりに努力した。妻の一番辛い時に少しでも励みになりたかった。生まれ出る子供に夫婦で対面したかった。
一月の寒い夜、病院に入った。生まれるのは朝方と言われ、妻の背中をさすりながら、夜を明かした。陣痛の間隔が短くなり分娩室に移った。
「ヒー、ヒー、フー」と妻と心一つに声を出した。恥ずかしさなど吹き飛んだ。まもなくだと思ったので、「頑張れ。そこだー」と言うと、「今ではありません」と先生に訂正された。〈赤面!〉
生まれ出たのは元気な女の子だった。子供の出産がこんなにも感動的だとは思わなかった。魂を貫く歓喜、生命への畏敬。しばらく言葉が出なかった。妻をねぎらっていると、体をきれいに洗われた娘が分娩台脇の小さなベッドに寝かされた。片目を明けて僕らを見ていた。
「生まれて来てくれて、ありがとう。私たちが新米パパとママだよ」
二番目の子の時は、私がテスト受験中だったので立ち会えなかった。あっという間に生まれたらしい。よく寝る男の子だが、一旦泣き出すと車のスポーツ・マフラー並みの大音量になった。
三番目の時はすこぶる賑やかだった。女子看護学生が勉強のために立ち会う事になった。三〜四人が分娩台のまわりを取り囲み、家内の左手に一人、右手に一人という感じで即席応援団となった。私の出番はなくなった。生まれた娘を見て、看護学生達は涙を溢れさせた。
「子供を作る」と一般に言うが、いっい人間が人間を作れるのだろうか。クローン人間誕生が取りざたされているが、すでに存在している〃命〃の切り張り技術に見える。昔の人が言うように、赤ちゃんは授かりもの、という見方が正しいと思う。これは、気絶せずに立ち会いを終えた私の素朴な感想だ。
自分の子供に運転を教える。親にとってこれほどの試練はない。
「どこ見てるんだ。ぶつかるじゃないか!」
二車線の合流地点で私は高校生の息子にどなったが、息子は父の判断が間違っていると顔で反発した。
州法が改正され、ある年齢以下の高校生が免許を取るためのードルが高くなった。指定のドライブ教育と一定時間の昼と夜の運転練習がないと免許取得テストを受けられない。つまり、数十時間の親の忍耐が必須となったわけだ。
仕事で疲れて帰宅すると、夜のドライブ練習が待っていた。〈勘弁してくれよ〉と思いながら助手席に身を滑らせる。眼をつぶりたい心境だが、夜の道だ、そうはいかない。
息子は運転したい一心で上達は早く、テストも一発合格だった。
本当の試練は娘の時にやってきた。
ペーパー試験はすぐに合格した娘だが、それほど運転に興味がなく、仮免が期限切れになって更新した程だ。
差し迫った必要から娘は練習を始めたが、横に乗る私は息子の時以上に何度も噴火した。私はキラウエア火山になった。
語るも涙の父の忍耐と、噴火の繰り返しを経て、やっと実地試験に持ち込んだ。
娘のために〃パラレル・パーキングのテスト無し〃とにらんだ試験場を選んでおいた。教えても実施不可能なので、もし試験官に言われたら「できません」と謝る作戦だった。
娘はすでに一度不合格をもらっていた。小雨降る朝、試験コースをあらかじめ練習してテストに臨む方針だったが、左折時に前からの車に接触しそうになった。
〈これじゃだめだ。もう少し練習しないと本人のためにもならない〉と噴火を静めながら近くの図書館で不合格の知らせを待っていた。
ほどなく娘が来た。どうやって慰めてやろうかと娘の顔を見上げると、ニコニコしている。
「合格しちゃった」
「えっ」
「OKだって。試験官が、そこで止めてあの隙間に車をバックで入れなさいって言ったから、やってみたらぴったり入ったの」
「なにっ。生まれて初めて縦列駐車をやって、入ったのか」
「うん」
そんな事があるのか。何万分の一の確率だ。私の噴火マグマはどこかに吹き飛んでしまった。
まてよ、小学生の娘がもう一人残っていた。あー、試練と噴火がもう一度やって来るのか。
まだ暗い出勤途中の車で、急に山頭火の俳句を思い出した。
分け入っても分け入っても青い山
なつかしい。日本の緑の山がなつかしい。
山頭火の本名は種田正一で、明治十五年山口に生まれた。家は裕福だったが幸せとは縁がなかった。七歳の時、母親は裏庭の井戸に飛び下り自殺した。村の名士で助役だった父が女を連れて旅行中の出来事だった。
勉学に優れていた正一だが、心を病み早稲田大学を二年で中退する。
家にもどり、父と共に酒造業を営み、サキノという女性と結婚。翌年二十九歳の時には長男も生まれた。
経営難から倒産し、三十五歳の時に家族を伴い友を頼って熊本に夜逃げした。
そこで古本屋を開くが生活に身が入らず、十一年間連れ添った妻と離婚、三十九歳で単身東京に旅立った。
市役所などに勤めたが長続きせず、関東大震災に遭う。なすすべも無く、捨てたはずの妻のもとに転がり込んだのが四十二歳。
大正十三年の暮れ四十三歳の時、泥酔して線路に飛び出し市電を止める。寺の和尚に預けられ、翌年出家。
軍国主義が進む時代に一人、漂泊の旅に出る。九州、四国、日本の各地で野宿し、人と出会い、酒を酌み交わし、思いつくまま自由な形で俳句を書き留めた。
まつすぐな道でさみしい
どうしようもないわたしが歩いてゐる
乞食僧の身なりで旅を続け、昭和十五年(一九四〇年)五十九歳でその生涯を終えた。
ハワイに住む私は、時としては山頭火の歌うような日本の自然が無性に懐かしくなる。
自然描写だけでなく、山頭火が書き残した俳句は時代を越えて心を打つものが多い。
〃生産的な人間〃が普段押しやっている人間本来の心がそこにある。すなおさ、孤独、ため息、自責の念、ユーモア、自然描写、他者への温かいまなざしなどがにじみ出ている。
雨ふるふるさとははだしであるく
誰か来さうな雪がちらほら
山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆふべもよろし
「ウッ!」
車の運転席から荷物を取ろうと後部座席に手を伸ばした瞬間、右肩に激痛が走った。うなった後は、息を止めてじっと痛みに耐えるしかなかった。
去年の春から、右肩の痛みが続いていた。仕事がら、コンピューターのキーボードをたたく事が多く、マウスでの作業もかなりある。それが原因だとは分かっていた。
よし、水泳でもして、思いっきり腕を動かしてやれと、四年生の娘とプールに行った。クロールはこうやるんだとお手本を見せようとしたが、右手が水面に入った瞬間、あの激痛が、それも一段と激しい痛みとなって私を襲った。帰りは左手でだけで運転して帰った。
インターネットで五十肩を調べると、肩の関節の回りの組織が老化して炎症を起こし、痛みで腕が上がらなくなる症状だと説明していたが、〃老化〃という二文字がみょうに気になる。
車だって十年乗れば、あちこちガタが出る。人だっ同じだな、と洗面所の鏡を見ながら手を上げた。右手がまっすぐ上がらなくても生活に支障ないさ。これからの人生はこれで行くかと、あきらめた。
職場で私の前に座る編集局員の二人が、私の症状を聞き、同情して解決法を考えてくれた。「そうだ、お灸で治った人がいた」となぜか目を輝かせながら叫んだ。
さっそく店で買い求め、五十肩に効くというツボにお灸をしてみた。さすがに熱い。小学生の娘はお灸を見るのが初めてで、もくもくと煙が上がり、赤くなるのを興味津々で見ていた。娘はそれ以来お灸が気に入ったようで、毎日私に迫ってきた。
「お父さん、お灸」
「あれ、熱いんだよ」 「だめ、お灸しなきゃ」しかしこのお灸が、効果てきめん。肩の痛みが最初の一回で半減。実に楽になった。
それに加えて職場の椅子を新しい物に代え、座高を楽に調整できるようにした。キーボードを打つ時の肘の角度を理想的な九〇度に維持できるようになった。
お灸と椅子と軽い水泳のおかげで、腕が上がるようになり、痛みもなくなった。
金正日や独裁政治家の硬直した考え方を変えさせる特別なお灸があったらいいのになあと思った。
洗面所の鏡の前で、白髪は増えたけど老化はまだ先だと自分を慰めていると、娘がやってきて、ニカリと笑って例のセリフを発した。
「父さん、おきゅう!」
アカデミー主演男優賞を受けたのに彼は笑っていなかった。
映画「ピアニスト」に主演したエイドリアン・ブロディは、八の字眉毛をいっそう傾け、悲しみの表情でスピーチに立ち、戦争の早期終結を期待する、クウェートに派遣された友人に無事帰ってきてほしいと声を絞った。
私はAP提供の写真を手元のコンピューターで拡大して調べたが、ブロディは泣き出しそうな顔だった。
アカデミー監督賞も「ピアニスト」で、虐殺から逃げまわるユダヤ人ピアニストを描いたロマン・ポランスキー監督が受けた。
第二次世界大戦中、ユダヤ人隔離収容生活を経験したポランスキー監督は、その時の体験を随所に散りばめた。
私も「ピアニスト」を見に行ったが、映画館は空いていた。この種の映画は興行成績が悪い。しかし、いったんフィルムが回り始めると最後まで引き込まれた。この一年間に私が見た映画の中で一番心に残った重い映画だった。悲惨な映画だが、不思議な希望を残してくれる。
主人公のピアニストは実在の人物で書物にもなっている。アメリカ映画によくある勇敢なヒーローが苦境を切り開くという筋書きとは正反対に、苦境に追いつめられてかろうじて生き延び、偶然に生き延びたというのが実感だろう。
ユダヤ人がナチスに殺される場面がたくさん出てくるが、ことさら残酷さを強調ぜず、乾いた表現で殺人を糾弾している。
あるユダヤ人女性は、皆が整列させられて列車で移動する前に、どこに行くのですかと一言ドイツ兵に聞いただけで、射殺された。
この映画でピアニストを演じたエイドリアン・ブロディは、役作りのため体重を極端に減らし、自分の車を売りさばき、電話を止め、狭い部屋に引っ越し、少額のお金で撮影中数ヶ月間暮らしたという。
日本で上映するために「戦場のピアニスト」というタイトルが付けられたが、如何なものだろう。戦前も、戦争中も、そして戦争が終わっても一人のピアニストでしかなかった主人公をポランスキー監督は描きたかったのだと思う。
劇中でピアニストは魂を揺さぶるような演奏をするが、今も耳から離れない。
フィルムの中ではなく、敵も見方も一般人の命も今絶たれている。正義の実現を願う。平和も願う。
七月二四日の夜、彼は眠れなかった。ビザを出すべきか、断るべきか。
一九四〇年七月一八日、まず二〇〇人のユダヤ人が日本領事館にやって来た。責任者の杉原千畝(ちうね)は、五人の代表者と二時間話し合い、その日の内に日本外務省に打電し、許可を求めた。
翌日、当時のソ連領事館に出掛け、ユダヤ人のソ連領内通過了解を取り付けた。
二四日外務省は今度もビザ発行を拒絶。その夜、眠れなかったと後に杉原は述懐している。
二五日には彼の心は定まっていた。一枚一枚必要事項を手書きし、ビザに署名していった。
外務省に現在保管されているビザ発行者リストには二一三九人の名前があるが、それ以外にもビザや渡航証明書などを受け取った者がおり、命を助けられたユダヤ人は四〇〇〇人から六〇〇〇人といわれている。現在生きている人とその子孫の合計は四万人に達するという。
領事館を閉鎖し、列車でカウナス駅を出るまで渡航証明書を書き続けた。
戦後の抑留期間を終え、帰国した後杉原を待っていたのは、外務省からの辞職勧告だった。
一九六八年八月、在日イスラエル大使館の参事官ゲハシュラ・ニシュリ氏は、ボロボロになったビザを差し出し、私は二八年前あなたと交渉したユダヤ人代表の一人ですと名乗り出た。
その後イスラエル政府や人道団体などから表彰が相次いだ。
「わたしは、ただ、当然のことをしただけ」と淡々としていた杉原は一九八六年八十六歳で地上を去った。
二〇〇〇年十月、河野外務大臣は杉原氏の遺族に対し謝罪し名誉回復の言葉を表明した。
杉原氏夫人の講演会は四日行われたが、写真展と映画の上映は四月一杯日本文化センターで続く。
金魚を飼ってもう二年になる。正確には、飼わされて二年か。
娘にせがまれてペットショップに出かけた日を思い出す。
「この小さい金魚を五、六匹下さい」と店員に言うと、「ペットとして飼いますか」と聞かれた。
ぽかんと口をあけて店員を見つめた。なぜそんな事をわざわざ聞くのだろう。しばらく考えて、あっ、そうか、肉食魚の餌なんだ。
我が家に帰り、水槽に入れた。これで餌にならず生き延びられたぞ、よかったな金魚くん。命拾いしたためか嬉しそうに泳ぎ回った。
娘も最初は熱心に餌をやったが、我が家もご多分に漏れず、水の取り替え、掃除、餌も結局父親の仕事になった。
朝私が水槽に少しでも近づくと、気配を察して金魚たちはハデに取り乱す。「食事の時間だ、やったー、飯だ、飯だ」という雰囲気をみなぎらせ、あたふたと水面近くで暴れる。
生活に追われて、水の入れ替えを忘れると、見た目にも水質が悪くなる。ごめん、ゆるせよ。今取り替えるからなと金魚にあやまる。
〃水道水をそのまま入れないで下さい〃と日本で金魚ばちを買った時、説明書に注意があった。水道水を汲み置いて一日太陽に当てるか、薬品を入れて水を中和させるようにと書いてある。水道水に混じっている塩素などの薬品が金魚に悪く、死んでしまう事もあるらしい。金魚がそのまま住めない水を、日本人は飲んでいるわけだ。
日本の例を知っていたので、ハワイのペットショップの店員に水道水の中和剤があるかと聞いてみた。そんな物は必要ないよ、そのままで大丈夫と教わった。
金魚の泳ぐ水槽は小さな世界だが、毎日見ているとちょっと大げさだが地球環境について考えたりする。
地球の表面は七〇%が水で覆われ、その内九七・五%が海水で、淡水は二・五%だという。飲み水などに利用できるのはわずか〇・〇一%だと知って驚いた。
世界人口は今六〇億人だが、統計によると二〇億の人々は安全な飲料水を利用できないという。この水環境改善のために日本で世界会議まで開かれた。
自然や動物は有害なものを残さないのに、人間が作ったものだけが土や水に戻すのに途方もなく時間がかかり、有害だ。
自分もその愚かな人間の一人を止められないが、〃大きな水槽〃の地球を少しでもきれいにしたいと思う。
「雨」という漢字をじっと見ていると、窓から眺めた梅雨どきの景色に見えてくる。漢字は優れた表記文字だ。「傘」も、漢字を見るだけでカサの形が目に浮かぶ。
コンピューターには〃アイコン〃といって見ただけでわかる目印が使われるが、基本的発想は漢字と同じだ。
中国で五千年前にできた象形文字は漢字として洗練され、日本に輸入されてさらに簡略化した。
英語のアルファベットは、字が並んで初めて意味を為すが、漢字は一字でも分かる。
PALMとつづるより、「掌」という漢字一字のほうが視覚的だ。
ANGERより「怒」のほうが頭に来ている様子が強く出ている。
便利な漢字も、昔に比べ文章から随分減ってきた。森鴎外や島崎藤村の小説は、頁を広げただけで黒っぽく漢字が多いと分かるが、現代人が読むには覚悟が必要になった。
それに加えて、携帯電話のメイル文化が日本語を変化させている。「アケオメ」と携帯電話のメイル機能で文章が送られて来ても、我々には意味不明となる。
アケオメとは「明けましておめでとうございます」の省略型。小さな携帯電話に片手入力するには便利な方法だ。
私も「イカシロ」と言いたくなる。(〃いい加減にしろ〃を私流に短縮した)
若者だけの暗号メイルにしても、手紙というものは結局のところ人から人に個人的な心を伝える連絡手段だ。
短くたって心通う手紙もある。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
徳川家康の家臣、本多作左衛門重次が陣中から妻に送った有名な手紙だ。お仙とは息子の幼名で後に福井県丸岡城主になる。簡潔な指示だが、よく練られた内容だ。文面には表れないが、戦場の夫から妻に手紙を出すという事自体に思いやりが感じられる。
今年一月に二人の娘を日本に送り、一週間実家の母に面倒を見てもらった。ハワイに戻って来た娘達の嬉しそうな土産話を聞き、筆無精の私も何故か分からないが手紙を出す事にした。数日後、母から電話があった。「手紙ありがとう。何度も、何度も、読み返したよ」
〃ありがとう〃は私のせりふのはずだった。出費したのも、世話をしたのも、準備をしたのも母だが、私の短い手紙をこんなに喜んでくれるとは。
今年も母の日が来る。
テロは平和な日常に突然やって来た。
被害者たちは何が起きたか理解できないまま苦しみで押しつぶされた。叫び声、救急車両のサイレン、泣き声、ヘリのホバリング音。テレビ画面は繰り返し悲惨な画像を再生した。
事件から数日経って、犯人は誰か、どんな組織が背後にあるのか、徐々に分かってきた。
誰もが徹底追及しろと声を上げ始めた。テロ実行組織を壊滅させ、首謀者を捕らえろ。二度と同じようなテロが起きないよう危険の芽を摘めと世論が後押しした。
テレビの画像には、現在進行形で現場の様子が映し出された。相手側からの毒ガス攻撃を特に警戒しながら作戦は進められた。人々は仕事の手を止めテレビ画面に釘付けになった。
首謀者はなかなか捕まらない。卑怯だ。最後まで逃げるのか。
これは、911テロ事件とイラク戦争の流れを振り返ったものではない。今から八年前、日本で起きた地下鉄サリン事件とオウ真理教本部施設に乗り込んだ機動隊の様子を描いたつもりだ。
機動隊は列をなしてしてオウムのサティアンに突入した。ミサイルと戦闘機でイラクを攻撃した米英軍とでは規模でも犠牲者の面でも全く違うが、二つのテロ事件とその後の対応は骨格において非常によく似ている。
日本人や日本マスコミは感情的とも言えるほどイラク攻撃に反対したが、テロ実行集団オウム真理教に対しては、アメリカと同じ対応をしてきた。被害者への同情、オウムへの怒りや憎しみ、抗戦論、弾圧容認、監視強化支持など米国の姿勢と何ら変わりがなかった。
911テロが日本で起きていたら反戦論が生まれただろうか。オウムへの反応を見れば、おそらく無理だろう。
国際社会の構図が変わり、世界中がテロ標的となり、日本も安全だと言えなくなった。小泉首相は先制攻撃の可能性が高ければ先にたたくと発言し、方針を百八十度転換した。
被爆した唯一の国として反戦を唱え、世界平和を求めるなら、感情的な反戦ではなく実際の脅威に現実的に対処できる骨太の反戦論構築が今こそ必要だ。ムラ社会の旧態依然とした思考を離れ、戦争を未然に防ぐタフな交渉、世界をうならせる論理、評価される国際援助、勇気ある決断等のできる世界に通用する日本人の登場が切に待たれる。
ハイスクールの卒業式は何て楽しいのだろう。今年は二回目なのですっかり楽しんだ。
高校生バンドが演奏する〃威風堂々〃の曲に合わせ、卒業生たちが運動グラウンドに下りてきた。緑の芝生にブルーのガウンが鮮やかに映える。
父兄や親戚、友人たちは観覧用の階段席に座り、通路は遅れて来た人で身動きがとれない。
ハワイの卒業式は生徒に実に公平だと思う。
頭が良いが普段目立たない子も今日は最前列に並んで、スマ・クム・ラウディなどと成績優秀の称号をもらう。
出来が良くない生徒も心配いらない。卒業証書を渡す際に名前が呼ばれるが、この時とばかりに友人・親戚連合応援団による大声援が起きる。
「パフー」「ボー、ボー」「キャー!」
この声援をもらえれば、どんな成績を取ろうが関係ない。卒業生は理屈抜きで嬉しくなる。
私の前に白人夫婦が座っていた。お父さんは一見して軍関係の人だと分かったが、ブロンドでショートヘアーのお母さんとあまり会話しない。席を確保するため西日の直撃する観覧席で二時間耐えた後なので口がきけないのだ。
お父さんが無言でビデオ撮影しているのは男子生徒の方角だった。順番が来て息子の名が呼ばれたらしい。それまで静かだったお母さんが突然、
「○×△□!」
と思いっきり息子の名を呼んだ。
あまりの大声に私は一瞬たじろいだ。
この白人夫婦は、我が家と同じでハワイに親戚もなく、歓声もパフーパフーというラッパ音も期待できない。そこでお母さんが一世一代の大声で息子の門出を祝福したわけだ。
このひと声を聞いただけで今日は来た価値があった。
私は息子に内緒で、看板を作って家から持参してした。式典後、名前順にグラウンドに並ぶ時に〃私はここにいます〃と示す看板だ。息子の顔写真を拡大プリントして張り付け、ラストネイムの頭文字〃H〃には大好きな日本車のエンブレムをでかでかと書き込んでやった。どうだ俺だってお前の卒業をこんなに喜んでいるんだぞ。
式典後、グラウンドは新宿駅の朝の混雑状態と化し、レイをもらう卒業生と卒業を祝う親戚、友人で先も見えない。
友人が息子を祝いに来るたびに、「俺の看板見ろよ」と息子は誇らしげに指さしていた。良かったな、卒業できて。
雑木林の細い道を進むとT字路に突き当たる。右に曲がればすぐゴミ消却施設で民家や店は一軒もない。車も通らないし街灯もない。
時刻は夜十時を過ぎていた。私にとって通い慣れた道だが、充分にスピードを緩め右側を確認してからゆっくり左折した。少し走ると、パトカーの点滅信号が幽霊のようにバックミラーに浮かび上がった。いったい何だろう。パトカーは私の車を追い越して止まれと指示した。
生まれて初めてパトカーの後部座席に座らされ、名前や住所を聞かれた。
警官が二人、前の座席にいたが、一人がぶっきらぼうにこう言った。
「一時停止はね、タイヤが止まることなんですよ。あそこで一時停止しましたか」
私はあっけにとられて話を聞いた。説明する警察官本人もどこか決まり悪そうだった。
「あんな場所で取り締まりとは恐れ入った。それでも法治国家の番人か」とひとこと言ってやればよかった。結局罰金を払わされた。
ハワイでも家内が同じような目に会った。
ワイキキのクヒオ通りの信号が赤だった。交差点の左側にはパトカーが一台止まってた。家内はチラリとそれを見てから、そろりと車を右折させた。
日本の警官が定義した〃正確な意味〃での一時停止ではなく、あくまでもソロリだった。
家内が走り出すとパトカーがついて来たが、ライト点滅はなく、軽くクラクションを鳴らしたらしいが横を走るトローリーの音でかき消された。それがいけなかった、らしい。
後をつけてきたパトカーは横に止まり、ポリスは自分の窓を開けて警棒で家内の助手席側の窓ガラスを割れんばかりに叩いた。
自分が追われていたと家内はそこで初めて気がついた。ポリスの指示する場所に車を寄せたが、後をついてきたパトカーは家内の後ろのバンバーにぶつけてから止まった。
そのポリスは怒鳴り散らして名前を聞き、免許の提示を求め、怒りが収まるとさっさと離れていった。幸い罰金にはならなかった。
犯人逮捕の現場で撃たれ殉職した警察官のニュースは記憶に新しい。ガン治療で頭髪を失った仲間を励ますため坊主頭になったポリス達もいた。親切で勇敢な警察官が大勢いる中で家内が出会ったのは例外的な一人だと思う。
お巡りさん、〃心の一時停止〃違反ですよ。
帰宅するとジグソーパズルの完成部分が増えていた。
「いつやったんだ」
「へへへ、ちょっとね」と十八歳の息子が涼しげに言う。
「難しかったろう」
「別に」
∧なにッ、そんなはずあるか∨息子の挑発に完全に乗ってしまった。
「私も入った」と小学生の娘が横で叫ぶ。たった一個入っても嬉しいものだ。
「ほら見て」と家内も指さす。首が忙しい。他人が入れた部分にうなずきながら、息子に負けじと場所を探す。
パズルを囲んで家族の輪ができ、笑い声が起きる。皆でやるのも楽しい。
〃亀さん型〃のピースを五百個、千個と組み合わせ、大きな絵や写真を完成させるのがジグソーパズルだ。
ジグソーパズルが考案された当初は地図を理解させる教育用具だったらしい。ジグソーの文字通り、糸ノコギリの普及で現在の形に近づいた。日本にジグソーパズルが輸入されたのが一九七〇年前後。完成したパズルを台紙に糊付けして額に飾るのが日本風。日本で買うとかなり高いが、ハワイだと安い物なら一箱四ドルでも手に入る。
額に飾ったジグソーパズルを友人宅でたくさん見て、半分感心し半分あきれた事を思い出す。その頃は何の興味もなかった。
その後しばらくして、ジグソーパズルが手元に舞い込んだ。バザーか何かで買ったのだろう。気晴らしにやってみたら、これが面白い。それからは数年に一度だけパズルブームが我が家を襲う。
青い空は難しい。暗い木陰も難関だ。難しいからまた楽しい。緑に囲まれた白亜のノイシュバインシュタイン城の細部まで頭に入ってしまう。
このピースはどこかなと、見本の絵柄をにらんでいると世間のしがらみから離れられる。これもジグソーパズルの魅力だろう。
日常生活に疲れた時ほっとできる趣味と言えるが、生活のストレスが大きすぎると今度はやる気も起きない。自分の体調を測るリトマス試験紙のような面もある。
ちょっと大げさだが、私はジグソーパズルに人生の希望を感じる。買って来てフタを開けると、ゴミ箱をひっくり返した混沌しかないが、良く考えると解決が約束された混乱だ。人生もそうあって欲しいと願いつつ、息子と熱いバトルを繰り広げる。
明るくダイナミックな油絵で有名な少年画家浅井力也君と、お母さんの三和子さんを取材してから一年以上になる。
あれから力也君は日本でどんどん有名になった。小学校で使う教科書の表紙に力也君の作品十二枚が選ばれ、力也君を主人公にした漫画伝記が出版され、二〇〇二年には日本ユニセフ協会と共同通信社が主催して日本各地で個展が開かれた。
八月一〜六日、力也君の個展がホノルルでも開かれる。ハワイ在住の力也君だが、個展は主に日本で開催されてきた。これでハワイの人もゆっくりと鑑賞できる。
力也君の絵が印刷されたカレンダーを見た画材屋さんは、「最近あまり見ない、元気の出る絵だね」と感心したという。
そのとおりだと思う。見ていて力が出て来るし、やさしい気持になる。色が実に美しい。
力也君は出産時の酸素不足で脳障害を背負った。四歳の時に日本からホノルルに移住し、シュライナース児童病院で治療を受け、その後トーマス・ジェファーソン小学校の特別クラスに通い、今は十八歳になった。
今でも私は取材の日の事を思い出す。力也君は「アーアー、アー」という声と手話で話しかけてきた。理解できなくて困っていると、お母さんの三和子さんが、「9・
テロとその後の戦争をどう思うかと聞いています」と通訳してくれた。お母さんには力也君のどんな言葉も理解できる。
三和子さんは力也君の小さい時に絵の才能に気づき、絵の具を準備し忍耐強く支えてきた。母の愛情は地上に奇跡をもたらす。ハワイ美術院展に六歳の時に出した作品「二羽のピジョン」が大人の抽象画と理解されて入選し周囲を驚かせた。その後は着実に力を付け、NHKをはじめ多くのテレビ、新聞に取り上げられた。
〃奇跡の天才少年画家〃と騒がれても、力也君は以前と何も変わらずにマイペース。今でも長い距離は歩けないし、はっきり言葉を発音できない。持病の心臓発作で最近も生死をさまよった。でも、力也君はいつもナイスで、前向きだ。
「浅井力也の世界展」は、八月一日(金)〜六日(水)午前十時から午後八時。(日曜と最終日は五時まで)会場は、ワードウエアハウス二階、カカアコ・カンファレンスルーム。入場は無料。
「じゅげむじゅげむ、ごこうのすりきれ、かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつ、くうねるところにすむところ、やぶらこうじのぶらこうじ、ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがん、しゅーりんがんのぐーりんだい、ぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけ」
子供の頃テレビの落語で聞いた「じゅげむ」は声に出すとリズムが楽しく、最後の「ちょうすけ」までつっかえないで言えると何とも爽快だった。漢字で書くとこうなる。
「寿限無寿限無、五劫のすり切れ、海砂利水魚の水行末雲来末風来末、食う寝る所に住む所、藪ら柑子のブラコウジ、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」
落語「じゅげむ」は、生まれた子供が長生きで幸せになって欲しいと、和尚さんに命名の知恵をもらいに行くが、教わった名前全部を息子に付けてしまい珍騒動が起きるという内容。
「寿限無」は長寿がいつまでも続く事。「五劫のすりきれ」は、三千年に一度降りてくる天人が衣で岩をなでるうちに岩がすり切れるのが一劫で、途方もなく長い期間。「海砂利水魚」は、海の砂も魚も数え切れないほどたくさんあるという事。「水行末、雲来末、風来末」水や雲や風の行く先は果てがないという事。「食う寝る所に住む所」生きていくために必要不可欠なもの。「藪ら柑子のブラコウジ」生命力の強い植物の名前。
「パイポ」以下は、中国にあったというパイポの国のシューリンガン王とグーリンダイ王妃に生まれたポンポコピー姫とポンポコナー姫の姉妹が長生きだったという話。「長久命の長助」は、長く久しい命を持って長く孝行するとの意味。
日本人は世界有数の長寿民族になり「じゅげむ」の願いを体現したとも言える。
ところで、〃長い〃から幸せなのか。〃多く〃持っていれば幸福なのか。もちろん〃長く〃と〃多く〃にこしたことはないが、量的幸せから、質的幸せへの転換期に来ているように思える。
「寿限無」という名前より、「無一物無尽蔵」という名前のほうが現代にふさわしいかもしれない。
日本の夏山シーズンも終盤。高原はもう秋の気配だろう。
八ヶ岳の白駒池のほとりで四、五日テントを張った事を思い出す。うっそうとした樹林帯に足を踏み入れるとすーと汗が引き、湿原近くでは可憐な高山植物が咲き誇り、苦労して登った岩場からは眺望を楽しんだ。
ある日の山歩きでリーダーが立ち止まり、しばらく地図を見ていた。先をにらんでから振り返り、こう言った、「間違えたな。もどろう」一緒の仲間は動揺して「えっ」と反応したが従うしかない。疲れていたので文句も言いたかった。でも確かに道は険しくなり、苔むした倒木ばかりが目に付き、どんどん暗がりに進むようだった。
弾んでいた会話も湿りがちになり、来た道をとぼとぼ戻った。後で考えると、的確で正しい判断だった。
最近は日本で中高年の登山がブームになっているが、同時に遭難も増えている。
若い頃に山に登ったという人が危ないそうだ。それも下山の時が危険だという。朝からの登山で体力も注意力も落ちている。道を間違えると引き返さずに安易な場所で降りようとする。そんな時、滑落、転落事故が起きるという。
数年前、静岡県警山岳遭難救助隊が注意を呼びかけた。
「中高年登山者の中には、体力の衰えを自覚していないケースや技術を過信しているケースが目立ち、他の登山家があまりのぼらない山に登ろうとする傾向がある」
中高年登山事故の本当の原因は、技術や体力の問題ではなく、頑固な心かもしれない。
静岡県警山岳遭難救助隊は次の四つを対策として掲げた。
1、登山計画書の提出
2、体力にあった余裕ある登山
3、危険な単独登山を避け、経験のある指導者のもとの安全登山
4、登山道がわからなくなったら分かるところまで戻るか、上に向かって歩く。
文部科学省の登山研修所でも、「谷への下降は絶対避けます。尾根上に出て、じっくりと道を探しましょう」と勧めている。
道に迷った時は下に降りれば何とかなると安易に考えるが、プロのアドバイスは逆に「上に」だった。
迷った時や、困った時は「上に向かって歩く」。何となく示唆に富んだ言葉だな。
ドアを開けて玄関に立つと、そこは外国だった。今から三十年も前の思い出話しをする。
オーブン料理の香りが家じゅうに充ちていて、場違いな所に来た自分に気後れした。
外見は普通の民家だが、中はアメリカだった。木のフロアリングはよく磨き込まれ、焦げ茶色に輝いていた。椅子やソファー、テーブル類は大型でかなりの年代物だが、手入れが行き届いていた。当時の日本家屋では見慣れないほど部屋を広く使っていた。
招かれた学生仲間と一緒に食事の席に着くと、良い香りの理由が分かった。田舎物の私は四角い肉料理がミートローフだとも知らず、「こんなに美味しい物が世の中にあったのか」と深く感激した。
食卓の大皿の端には色鮮やかなニンジンが添えられていた。これが、また、うまかった。ほんのり甘く煮てある。アメリカ人はいいもの食べてるんだなと関心した。
これは、日系アメリカ人夫婦と大学で出会い、自宅の夕食に招かれ時の事だ。ちょっと大げさだが、ミートローフとニンジンのグラッセは、私にとって西洋文明との邂逅というべき出来事だった。
今でもその時を思い出すと、懐かしい雰囲気や香りがよみがえる。
その日系夫人は学内で私を見つけると、「ハー・ワー・ユー、ミスター・ヒラユ」と丸顔を太陽のように輝かせながら話しかけてきた。
こう言われると、私はくすぐったくて、毎回逃げ出したい心境になった。
顔は日本人のおばさんなのに、なんでこんなに流ちょうな英語を話すのだろう。日本語ができるんだから、日本語で話してほしいな、といつも思っていた。
「アイ・アム・ファイン・サンキュー」とつっかえながら私は答えたが、別な内容を英語で質問されるとチンプンカンで、頭をかいてばかりだった。
ご主人の方は、昭和天皇に良く似た顔立ちで、日本語を使うと明治時代に戻ったような話し方をした。言葉少なで、前方しか見てないような人だった。
二人とも誠実で親切、慈愛の固まりだったがもう地上では会えない。
九月十一日、世界を変えた日。テロ被害者の遺族、イラク人死者の家族、死亡したアメリカ兵の関係者、様々な立場で様々な想いが去来する特別な日。あなたの胸に思い起こすものは?
「ストライキが終わったら、今度はこっちが乗車拒否だ」、と今回のバス・ストライキに腹を立てている人が多い。
労使交渉も山場を迎え解決が近づいてきたが、お年寄りなどは出かける足を奪われて怒り心頭に発している。
チャイナタウンも売上激減で、普段は込み合う時間帯も買い物客が少ない。
ワイアナエなど遠隔地の人は、病院に行けない、学校に行けない、政府からの援助手続きに出られないなど深刻な影響を受けた人もいるらしい。
一般人の率直な反応は、(1)バス運転手の給与や手当は充分で俺達以上にもらってるよ(2)解雇や給与カットはどんな企業でも当たり前さ、(3)ハワイの不景気を考えると会社側の約束は合格点以上だ、(4)ストライキができるならましな方だ、という事だろう。
十九日州庁舎前で行われたバス運転手組合の集会に私は取材で出かけた。
組合員と家族、支援者数百人がベレタニア通りに沿ってびっしりと立ち、手を振って通行する人々に支援を仰いだ。
しばらくその様子をながめたが、五十台に一台程度しか応援クラクションが鳴らな。しかもの多くはトラックやバス運転手で、いってみれば仲間内だ。乗用車がたまにプップーと鳴らすが、集会に遅れて到着した仲間だった。
スト支援者が少ない事を知っている組合員らは、クラクションの音がしたとたん一斉に音のした方向に顔を向けて歓声を上げた。
カヘレ組合長が集会で挨拶し、新しく五年契約を提案したと話すと、組合員から割れんばかりの拍手が起きた。
米本土の組合幹部や、ホテル組合長らの応援演説が続き、「俺たちは誰のために働いているんだ!」「俺達の仕事は誰のために役立っているんだ!」と組合員に叫んだが、なんだか私は空しくなった。
集会場から一歩外に出てキング通りを歩いたが、黙々とペダルをこぐ自転車の人が目に入った。
結局バス運転手の権利を守るため、お年寄りを含めた一般人の料金を値上げする雲行きだ。
バス運転手だってストに疑問を持つ人も出てきた。誰のためのストライキだったんだろう。
ストライキを契機に、大量輸送手段について色々な角度から議論すべき時かもしれない。
「♪ジョーン、ジェイコブ、ジングルハイム、スミス♪」と娘はキャンプファイアーで覚えた歌をくり返し、「毎日がキャンプだったらいいのにな」と、うっとりして言う。
父さんだって同じ気持ちさ。目を閉じると、海が見え、波の音が聞こえる。
キャンプ場の木陰で、妻は持って来た本を数ページ読んでは感想を話し、私はウクレレを弾きながら応える。
私達が泊まったキャンプ場はハレイワから西の海沿いにあった。テント持参組は庭の端にカラフルなテントを張ったが、八軒前後あったキャビンの一つに私達は寝泊まりした。夜は蚊もいないし、シャワーも清潔だ。食事は新築のレストラン棟で食べたが、主婦にとってはまさに〃極楽的生活〃。
海までは歩いて一分とかからない。正確には五秒くらいでジャボンと入れる。「泳いでいる時、魚に触っちゃった」と娘は教えてくれた。夜は親子で砂浜に出て、懐中電灯を照らしながらカニ取りに興じた。
夜はキャンプファイアーだ。夜空に赤い炎はよく似合う。アメリカにはキャンプ・ソングがたくさんあり、へんてこな踊りの付いた曲を見ていると思わず吹き出してしまう。本当は、リードしているおじさん達が一番楽しんでいた。
本格的なアウトドア・キャンプではないが、何でこんなに楽しいのかなと家に帰って考えた。
キャンプ場には最低限のモノしかない。それが良い。子供はそこにあるモノを工夫して遊ぶ。テレビも、コンピューターもないから良い。消費活動と無縁の生活だから、「欲しいけど買えない」という子供のストレスもない。
請求書も来ない、仕事の電話もない、時間に追われる事もない。親だって超リラックスして人と向き合い、じっくりと語り合える。
広い芝生や海辺、バスケット・コート、食事、どこでも親と子供が一緒だ。それだけで子供は嬉しくなる。凧揚げができない子がいると、「ほらこうやるんだ」と父さんの出番になる。砂のお城の作り方、魚の釣り方、自然に親子が触れ合っている。
思いっきり遊んだ子供は笑顔になる。ゆとりのない生活から解放された親にも笑いが戻り、本来の優しい父さんと母さんの顔になる。こうしてキャンプ場には笑い声が溢れる。だからキャンプは楽しいんだ。
事情があって木を切る事にしたが、切るに忍びず何日もその木を見上げていた。
その緑の針葉樹は青空を突き刺さすように鮮やかに立っている。枝や幹は風に吹かれてゆったりと動き、天に広げた長い枝は鳥や人間を歓迎しているように見える。
何種類もの鳥たちが朝に夕にこの木にやって来る。見晴らしが良いのだろう。楽しげに歌い、互いに呼び交わす。
前の住人が手入れを怠ったせいか、近所では一番背の高いひょろりとした木になってしまった。貿易風に吹かれて海寄りに少し傾斜して立っている。
日本で建物新築の際に木がじゃまになった事があった。年輩の婦人が「切らないでほしい」と懇願していた事を思い出す。若かった私は、それほど共感できなかったが、今は違う。
なぜだろう。一本の木を見上げているだけで、心が安まるのは。
木の前で腰を下ろし、しばらく静かにしていると、いつのまにか木と語り合い、自分とも対話している。漠然とした景色を見ているより、一本の木に向かい合う方が、心の世界に近づく気がする。
その日が来た。息子の助けを借りて、ある高さから上を切り落とす事にした。
作業は時間がかかった。私も息子もくたくたになった。地面に残ったのは、何本もの長い枝と、直径十インチくらいの幹だった。
私は作業の疲れで、座り込んで動けなかった。体が疲れただけでなく、ある種の喪失感と後ろめたさに打ちのめされていた。
十八歳の息子も似たような気持になった。その場に座り込み、横たわった幹をいつくしむように木肌に触れていた。思いついたように茶色の表皮を少しはがし、表れた白い部分にじっと手を当てた。
しばらくして、「父さん、木って、濡れてるよ」と唐突に言った。
私も息子がいた場所に座って、白い地肌に触れてみた。温かい。確かに湿っている。
太陽熱が木に残っているからだろう、人肌のようなぬくもりがある。
手に伝わる湿り気は、木が流した涙かもしれない。葉の先まで送っていた血かもしれない。
雨を受け止め、日陰を作り、私に向き合ってくれた人生の大先輩の木。人間の都合で申し訳ない事をした。息子も同じ気持だ。
大きく枝を広げ、青空に映える雄姿をもう一度見せてくれ。
「おい、メイトリックス見たぞ」と息子を挑発すると、「えっ、もう見たの」と悔しそうな顔を向けた。
話題の新作映画をハワイ公開初日に見た勢いで、「いやー、すごかったゾ」と話しかけた。
「ダメだよ!それ以上は言わないで欲しいな」と大学一年の息子は真剣に抗議した。
日本での公開名は〃マトリックス・レボリューションズ〃。シリーズ三作目で完結編となった。
「父さん、私も今日見たよ。ああいうの苦手なんだ。残酷なシーンで何度も目をつぶっちゃった」と大学二年の娘はEメールで感想を送ってきた。
うちの娘が映画に期待するのは、美しい自然、心通う交流、感動的な結末だと思うが、メイトリックスには困惑したはずだ。
シリーズ全体の内容は、近未来世界を舞台に機械と人間の闘争を描いている。人間が機械に支配されメイトリックスという仮想現実の世界に閉じこめられた、というのが基本設定。
未来・宇宙映画ファンなら、迫力ある最新コンピューター・グラフィックスと強烈な効果音を楽しめる。マシンの繰り出す膨大な数の殺人兵器に、ガンダム型兵器を操って立ち向かう人間たちの姿は壮絶だ。
「父さん、深いよ。ほんとに深いよ」二、三日たって息子も観て来た。「登場人物の普通の会話が、急に深い内容になるんだ。今度は会話に注意してゆっくり見直したいな」と興奮ぎみに話した。
私は台所に立ったまま、息子は近くの柱を背に床に座ったまま、メイトリックスに散りばめられた哲学的な問答について話し込んだ。
今、手で触れるこの世界は本当の現実なのか?人間は世界や宇宙という巨大な機械の一部なのか。カルマや運命、法則の前に人間は無力なのか。人にとって真に価値ある事は何か。私とはいったい何者なのか。
たった一本の映画が父と息子の共通項を作り、会話を豊かにしてくれる。映画の不思議な力だと思う。
さて、次は〃ロード・オブ・ザ・リングス〃だな。子供たちより先に見て、「勝ったね」と自慢してやろうかな。
待てよ、「父さん、絶対に〃ファインディング・ニモ〃を見てね」と大学生の娘にも小学生の娘にも言われていたんだ。そっちのビデオを見るのが先だったな。いや、忙しいな、子供と共通項を作るのは。
マーチングバンドの演奏行進を見て、不覚にも目頭がじーんとなった。
高校生マーチング・バンド大会が十日夜アロハ・スタジアムで開かれた。私は新年号の取材のため海側の観客席に座っていた。ハワイ大学のマーチングバンドの写真撮影が目的だった。
あいにくの冷たい雨だったが、十数校の高校生達は一心に演技を行った。
広い緑のグラウンドでは、小編成バンドから順に演技が始まった。位置を間違えて急いで列を直したり、トランペットの音がずれても、けなげな姿に感動した。
モアナルア高校のマーチング・バンドが黒っぽいユニフォームで登場した。「タン、タン、タン」という乾いたドラム音に合わせ、入場行進が始まった。「何かが違う」と私は目を見張って身を乗り出した。
軍隊式行進とは明らかに違い、しなやかで、統一がとれ、はつらつとした動きだ。行進だけでその力量が分かる。
広いグラウンドの定位置に止まると、鋭く管楽器が鳴り響き、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」で幕が開いた。テーマは宇宙だ。
波が岩に砕けるように、生徒らは美しい模様を描いては消し、集まっては離れ、難度の高い演技をさりげなく見せた。
アメジング・グレイスが静かに流れると、スペース・シャトル事故で亡くなったオニズカ宇宙飛行士の写真が掲げられた。右後方には十字架が作られ哀悼の意が表現された。
ここまで見て、私は鳥肌が立ち、目頭が熱くなった。まさかマーチング・バンドでこんな感動に包まれるとは。
最後に、ホルストの組曲惑星から「木星」の旋律が堂々と流れた。演奏が終わった瞬間、二百人を超えるメンバー全員が右上方を指さして静止した。
悲しみを乗り越え、宇宙へ飛び出そうというメッセージに受け取れた。
モアナルア校のバンド・メンバーに聞いてみると、暑い夏、最初の一カ月は行進練習だけに費やすという。指導する先生の人柄と情熱と創意に驚嘆した。
UHマーチング・バンドが最後に登場し、私は撮影準備にかかったが、演技を終えた高校生をねぎらい山側席を向いて演奏を始めた。
「しまった」、「でもいいや」。高校生マーチングバンドがくれた感動は何にも代え難い、と私は雨の降るスタジアムを後にした。
マイムマイムを踊れますか?
小学校の運動会前に何度も練習したあのフォーク・ダンス。
「懐かしい!」と思わず叫ぶのは、おそらく一九六〇年以降に小学生になった人達だろう。
あの頃、女の子と手をつなぐなんて絶対にない事で、練習前には「俺はやーだー」と嫌がる男が必ずいた。そう言う奴ほど一番手をつなぎたかったはずだ。
学級ごとに一つの大きな輪を作り、手をつないで時計回りにステップを踏んでいく。
哀愁を帯びた音楽が初めに流れ、両側の女の子と照れながら手をつなぎ、足を交差させながら左に進む。
音楽が急に情熱的に盛り上がり「マイム、マイム、マイム」と声を出しながら中央に集まる時は、隣りの子と肩が触れ合う程に近づく。
この時「マイム」の後に何と言ったかは人によって記憶が違う。エッサッサという人、レッセッセだと言う人、デッカンショーもあれば、ラッソッソもある。私はデッショショと覚えているが、きっと正しいデショショ。
調べてみるとマイムマイムはイスラエル民謡で、「マイム」はヘブライ語で〃水〃を意味し、旧約聖書イザヤ書十二章三節をテーマにして作られたようだ。最後の言葉は「ベッサッソン」と発音するらしく、〃喜びを持って〃という意味だという。多くの日本人が知らぬ間にヘブライ語で歌っていたとは驚く。
文部省のいったい誰があのダンスを知っていたのか。小学生に教えると決めたのは誰なのか。謎が謎を生み、興味は尽きない。
戦後の復興期、人々の心を明るくする目的でフォークダンスを普及させたという話もある。
他のフォーク・ダンスではオクラホマ・ミキサーやコロブチカも運動会のため習ったが、この種の曲は踊りながら相手が代わるという特徴がある。それで大抵みんなが悲しい思い出を持っている。何故って?それは、好きな人とペアになる手前で必ず曲が終わりになるからだ。
その点マイムマイムは相手が代わらないからドキドキしないですむ。想う人とずうっと手をつなげる幸せな人もいたはずだ。
ギネスブックに載るような大きな輪をアラモアナ公園で作って、マイムマイムを踊ってみたらどうだろう。
寒い真夜中、電話のベルで起こされた。何だろう、こんな時間に。
「あのね、○○ちゃんが死んじゃったよ」母の声だった。幼稚園に入ったばかりのかわいい顔が目に浮かんだ。私の妹の娘が死んだ‥‥。
「風邪で熱が出て、病院に行った時には手遅れだったの」
そんな、ことが、あるのか。
受話器を置き、しばらく呆然とした。妻に話し、着替えて車に飛び乗った。妹のアパートまでは遠い。
頭がキーンとしていた。アクセルは踏みっぱなしだ。何時間かかっただろう。車を駐車場に止め暗い外に出たが、妹の家にだけ明かりがあった。
ドアの前に立った。しばらく動けない。思い切ってノックして中に入った。
義弟がびっくりしたように出てきた。石油ストーブの上のやかんがしゅんしゅん蒸気を上げている。亡くなった娘の弟も高熱を出していた。義弟は看病で寝ていないのだろう。妹は病院だという。しばらく彼と言葉を交わした。
教えられた病院を訪ね、緊急入口を通り抜け、霊安室に入った。
「おにいちゃん」と不意に声がした。妹だ。
私は、ごめん、と言いたくなった。
小さな遺体がそこに横たわっていた。その女の子が急に起きあがって、おかしな事を言って笑わせてくれそうな気がした。
インフルエンザの合併症で、インフルエンザ脳症・脳炎と呼ばれる病気があるが、それにやられたらしい。日本国立感染症研究所によると、日本で毎年百人から二百人が死亡しているという。Reye(ライ)症候群という良く似た病気で死ぬ場合もある。
乳児から幼児の死亡率が高く、高熱が出て、けいれん、おう吐などの症状を伴う事が多い。市販薬で対処しないで、早く医者に見せる事が必要と言われている。
子供が死んでしまうと、誰のせいでもないのに、母親は自分を責めてしまうものだ。
あれから何回冬を数えただろう。妹夫婦にとってはインフルエンザの流行する冬はいやな季節に違いない。
妹は悲しみを乗り越えて、もう一人女の子を産んだ。元気に育って小学生になっている。
今年は米本土でインフルエンザが猛威を振っている。お互い健康に気を付けよう。
ウイリアム・シドニー・ポーターは一八六二年にノースカロライナで生まれた。彼がいなければ、クリスマスの美しい物語『賢者の贈り物』は世に出なかった。
ウイリアムが三歳の時に母は死去、医者の父は酒浸りになった。
十五歳の時に働き始め、以来職を転々とする。二十四歳でアソルという女性と出会い、駆け落ち同然で結婚。貧しい生活で妻は病弱、生まれた男の子はまもなく死んだ。
「人生はすすり泣きと号泣と、そして微笑みからできているが、その大部分は泣きじゃくる事ばかり」、とウイリアムは後に書いている。
銀行員として勤務していたが新聞発行も始め、借金だけが残り、酒に溺れ、銀行から一時的に金を流用したつもりが検査で発覚し、裁判になったが州南米に逃走した。
アソルが危篤と聞きつけ、やっと逃走先から戻り、自首したが、妻は八歳の娘を残し病死する。
三十五歳の時に五年の実刑判決を受け刑務所暮らしとなるが、娘の生活費の足しにと獄中で小説を書き始めた。
模範囚と認められ三年で釈放され、ニューヨークに移り住む。そこでオー・ヘンリーというペンネームで短編小説を書き一躍有名になった。一九〇六年、『賢者の贈り物』をこんな風に書き始めた。
「一ドル八七セント。それで全部だった。しかも六〇セントは小銭だった」
主人公のデラは貧しすぎて夫のジムにクリスマスプレゼントも贈れない。そこで自慢の長い髪を売って時計の鎖を買うが、ジムも自分の時計を売って櫛を買ってしまうという物語。
オー・ヘンリーの辛く苦い人生から『賢者の贈り物』のような美しい物語が生まれるのは一種の奇跡かもしれない。
有名な短編『最後の一葉』は、窓辺の木の葉が全部散る時に自分も死ぬと思い詰め女性のため絵を描く内容だが同時期の作品だ。
『賢者の贈り物』の四年後、ウイリアムは肝硬変で四十八年の人生を閉じた。
オー・ヘンリーは酒に酔いつぶれながら人生を振り返り、自分の詫び状として『賢者の贈り物』を書いたのかもしれない。
華やかさと忙しさが先行するこの季節だが、ウイリアムが残したプレゼントを静かに受け取りたい気分だ。
「母さん、いつにする?」
「えっ」
「レストランだよ。僕がおごるから」
「でも家族四人分だから結構高くなるわよ」
「アメリカではね、就職して最初にもらった給料で家族にごちそうするんだ。友達がそう言ってたよ」と十九歳の息子が話した。
「へー」
と妻は感心た。
息子は正式に就職したわけではない。今までに何種類かのアルバイトをしてきたが、ちょうど郵便局の深夜アルバイトが終わったところだった。クリスマス時期に手紙や小包が郵便局に集中するが、息子は深夜から朝方にかけての仕分け作業をしていた。
十二月に入り午前中はカレッジの授業、午後は今までのアルバイト、深夜は郵便局で仕事という生活になった。
いくら若くても、それはあまりにも無理なスケジュールだ。息子が朝方帰宅した気配でよく目を覚ましたが、暗澹たる気分だった。親がこんなに心配しているのに、まったく身勝手だ。自分の欲しいもの買いたいから働くのだろう。息子と会うたびに私は渋い表情になっていた。
息子の成長を喜びながらも、一方では「まだまだだな」と言う立場にいたい、という複雑な私の胸の内がある。小さな事でも、むきになって息子と議論する事があるが、大人げないと後で反省したりする。
クリスマス後の日曜の夕方、約束の時が来た。妻と私と小学生の娘が息子の車で出かけた。
レストランでは天ぷらや寿司など日本食を囲んで、わいわい言いながら食べた。
照れくさいけど、私は息子に手を差し出し、「ありがとう」と言った。息子は私よりも大きな手を出し、ギュッと握手で応えた。
子供は親の知らないうちに育つようだ。
家族でハワイに来た七年前、息子は中学一年で英語も何も分からなかったが、ハワイという社会に育ててもらった気がする。
「心配しないでいいよ、チップも払っておくから。さあ、さあ、先に行って」と追い立てられて店を出た。
車に乗り込む時、息子にこう言った。「俺が横に座ると、スピードの出しすぎだ、運転がなってないとか、余分な事を言うだろうから、後ろの席にしとくぞ」。息子はちょっと笑ってから涼しげにエンジンをスタートさせた。
明けましておめでとうございます、と言うには少々遅いのですが、今年最初の担当になるので挨拶させて頂きます。
日本で新年の挨拶をする時は特別な気分になりました。新雪を踏みしめるような、神聖で、身の引き締まる瞬間でした。
ハワイでは、クリスマスが終わるとすぐ「ハッピー・ニューイヤー」と軽く挨拶するので、最初はかなり面食らいました。その挨拶は元日まで取って置いてほしいな、と思いました。
挨拶も場所によって随分違うものですね。久しぶりに出会った人とは、自然にハッグするのがハワイ流ですが、日本人は深々とお辞儀をします。他人行儀にも見えますが、礼節ある美しい所作だと私は思います。
小学五年の娘が学校で友達に朝の挨拶をすると、「ヘイグレ・ケイジェイ、見たか」と挨拶代わりに言われました。家に帰った娘から話を聞いて、最初は何の事やらさっぱり分かりませんでした。〃ヘイグレ・ケイジェイ〃とは何のことかと尋ねると、「はぐれ刑事のことだよ。それ、間違っているよと教えてあげても、これが正しいと言ってきかないんだ」と困り顔だった。
そういえば、NHKの紅白歌合戦を見ましたか。日本にいた時は見向きもしなかったのですが、ここ数年はビデオに撮って見直しています。熱唱する姿と日本語の歌詞の美しさで胸が熱くなる事がたびたびありました。
今回は、紅組に点数が入らず、白組男性歌手の圧勝となりました。その原因は歌唱力や演出のうまさにあるのでしょうが、最後に登場したSMAPに負うところ大でしょう。
「世界に一つだけの花」は、シンガーソングライター槇原敬之らしい清涼剤のような心温まる曲でした。SMAPの歌う姿にも好感が持てました。キムタクがカメラ目線でウインクするという反則技が白組勝利を決定づけたかもしれません。えっ、見てなかった人もいますか。ビデオ録画した人から借りて良く見て下さい、しっかり映ってますよ。こんな挨拶なら、大歓迎という女性も多いことでしょう。
挨拶のスタイルは場所によって色々ですが、心を伝えたいという思いは同じですね。
今年も読者のお一人一人にとって良い年になりますように、御挨拶を申し上げます。
「あのー、渡したいものがあるんです」
「エッ、はっはい。分かりました。場所は公園ですね」
「ありがとう。それじゃまた後で」
女の子からの電話だった。中学生だった私は、突然の誘いにびっくり仰天した。
約束の時間前から公園で立っていると、自転車に乗った彼女が春風のように現れた。
「あのー、これ、もらって下さい」と、腕を真っ直ぐにのばした。ピンク色のリボンで結んだ小さな包みだった。家に戻った私は、机の上にそれを置き、いつまでもボーと眺めていた。
日本で最初のバレンタインデーは、一九五八年(昭和三十三年)にメリーチョコレート・カムパニーが伊勢丹で行ったセールだと言われている。初年度は板チョコわずか五枚の売り上げだった。その翌年はハート型チョコで巻き返しを図った。「女性自身」誌が一九六〇年にバレンタインデー特集を組み、徐々に日本全体に浸透していった。
一九六八年当時の私は、〃バレンタインデー〃という言葉すら知らなかった。
日本のバレンタインデーはアメリカのしきたりとは随分違い、女性から男性への愛の告白日に変化した。
日本のチョコレート会社のもくろみは大当たりで、年々売上が増えた。会社の上司や同僚への挨拶代わりの義理チョコまで現れ、〃義理チョコ禁止令〃を掲げた職場まで登場した。
義理チョコの予算は一個五百円以下で約十名分が相場とか。本命チョコは千円から二千円、それにプレゼントを付ける形になっているようだ。
義理チョコをもらっても、お返しに気を使うというから日本のサラリーマンも大変だ。
最近の傾向は、自分のために買う女性が増えたという。バレンタインの季節だけ入荷する海外のブランド・チョコを一人で楽しむという。男なんか目じゃないよという気概を感じる。
例のチョコレートどうしたか、ですって。もちろん食べました。甘くて、ほろ苦い味だった。
日本にいた時、妻は毎年のように義理チョコではなく、心をこめた本命チョコとしてプレゼントしてくれた。
本当です。絶対に義理チョコではありません。絶対に。
好田タクトという芸人がいる(らしい)。実際に見たことはないが、ついこの間、その存在を知った。
どんなことをするかというと、タキシードを着て、ラジカセでクラシック音楽を流し、世界の有名な指揮者のまねをするという。
手をゲンコツにしてにらみを利かす朝比奈隆、口をすぼめる小澤征爾。カラヤンやストコフスキーにもなりきって個性的に指揮棒を振る。
日本やヨーロッパの路上では大喝采を浴びたという。好田タクトは路上に魅せられた芸人だ。〈ハワイに来てくれないかな〉
路上ライブと言えば、日本では「ゆず」が有名だ。ゆずは北川悠仁と岩沢厚治の二人組で、若い女性に大人気の音楽グループ。NHK紅白で見た人も多いだろう。
一九九七年五月から横浜の伊勢佐木の松坂屋閉店後、シャッターの前で毎日曜夜十時からギターで歌い始めたという。一年以上続いた路上ライブとラジオ出演で人気に火が着いた。
ストレートで純真な歌詞がいい。素朴なフォークソング調のメロディーを今時珍しい生ギター伴奏で歌う。
テレビやインターネットという巨大メディアに疲れた人々は、路上という空間に新鮮さを感じ始めている。〈ゆずもハワイに来てほしいな〉
〃生〃や〃ライブ〃の現実から遊離して、テレビやゲームやインターネット漬けになった子供に問題が出ているらしい。その異変に気づいた日本小児科医会の医師たちは、「子どもとメディア」の問題に対する五つの提言を最近発表した。
1、二歳までの子供にはテレビを見せない。
2、母親は授乳中にテレビを見ない。
3、テレビを見る時間は一日二時間、ビデオ・ゲームは
分を限度。
4、子供部屋にテレビやパソコンを置かない。
5、親と子でメディア利用のルールを作る。
やっぱり、〃生〃が一番だね。表情や温度や息づかいまで伝わる現実の世界でもっと人と触れ合いたい。
テレビを消して、今日あった事をおしゃべりしたり、コンピューターのゲームを止めて公園で追いかけっこをしたらいい。子供に必要な事は大人にも必要だと思う。もっと人とのぬくもりを大切にしたいな。
家内は台所で夕食を作っていた。ジジジッと異様な音が外で響き、天井ファンが急に回りだした。
「妙だな、勝手に回るなんて」とスイッチを消そうと私は立ち上がった。その時、窓の外で黄色い光が炸裂した。気が付くと家は停電、近所も闇に包まれた。
隣家の前にある電柱が閃光の源らしい。昼間の激しい雷の影響変圧器がダメになったか、漏電か、とにかく近所一帯が真っ暗だ。
恐る恐る外に出ると、近所の人も顔を出してきた。「お宅も停電?うちもよ」なんて暗がりで話し合い、「そういえば、自己紹介もしてなかったわね」なんて二軒向こうのおばさんと家内が話し込む。
「こりゃー、修理に時間がかかるぞ」と妻に話し、家に戻るとロウソクを取り出しにかかった。クリスマスとバレンタインと誕生日がいっぺんに来たような、赤・緑・ピンク・白など各種キャンドルが灯った。
「もう少し早くご飯を炊いておけば間に合ったのに」と家内は炊飯器のふたをうらめしげに開けた。
「ほら、携帯用のガスコンロがあったじゃないか」埃をかぶった箱から取り出して火をつけると青い炎が力強く吹き出した。おかげでおかずもできた、ご飯もうまく炊けた。暗がりの夕食だけど美味しかった。
娘は机の上にキャンドルを四本立て、小学校の宿題に取り組んでいたが、「あたし停電嫌い!」と音を上げた。
テレビもコンピューターもダメ。電話も使えない。料理もできない。シャワー用のヒーターもダメだ。まいったな。
わざわざ自分から停電にするというイベントが日本で昨年行われた。環境NGOが呼びかけ、企業、環境省、自治体が協力し、六月二十二日(夏至)に日本全国規模で実施された。当日は東京タワーや大きなビルなどが午後八時から照明が二時間消されたという。
数百万人が地球温暖化やエネルギーについて暗闇の中で考えた。
私もロウソクの炎を見つめてよーく考えて一つの結論を出した。「夜は本来寝るものだナ」。えっ、当たり前の事を言うな、ですって。深い考察をしたつもりだけどなア。脳みそのエネルギー消費を抑えすぎたのがいけなかったかな。
日本は病んでいる。色々な問題や症状が表面化しているが、統計に現れる部分は氷山の一角で、水面下はもっと悩みが深い。
登校拒否児童は日本の小学校で二万六千人、中学では十万五千人いる。(二〇〇三年文部科学省統計)
高校三年女子の五十人に一人、つまり約一万二千人が「思春期やせ症」になっている。ストレスや無理なダイエットが引き金になり、重症になると不妊症や内臓障害を起こす。(二〇〇三年厚生労働省統計)
周囲に受け入れられなかった事や挫折をきっかけに、六カ月以上自宅に閉じこもる「社会的ひきこもり」。最近一年間の相談件数は六千百五十一件。四百三十人が職場にも学校にも十年以上行ったことがない。三十歳を過ぎても家から出ない人が千百五十人いる。(二〇〇三年厚生労働省統計)
アルコール依存症として治療を受けている人は日本に四万五千人だが、実数は二百三十四万人と推定されている。日本酒なら五合、ビール大瓶なら六本、ウイスキー・ダブルなら六杯以上を毎日飲む人はWHO(世界保健機構)の基準で「大量飲酒者」で、アルコール依存状態とみなされる。
うつ病はWHOによれば、「二十一世紀に最も危惧される病気」に指定されたが、世界中で一億二千万から二億人が罹病している。うつ病患で通院・治療している人は厚生労働省の統計では四十万人を越えるが、実数は三百六十万人から六百万人という。
日本における自殺者は五年連続で毎年三万人を越え、中高年の伸びが際だっている。ここ五年くらい前から急増しているのが、自営業、サラリーマン、無職層の自殺。四十歳代が四千八百人、五十歳代が八千四百人、六十歳以上が一万千人。若者より中年が、中年よりも年長者の方が死を選びやすい。(二〇〇三年警察庁統計)
この他に、児童虐待、高齢者虐待、いじめ、薬物依存、ギャンブル依存、援助交際、まだまだある。
ある工場付近でよく似た症状の病人が多数出た場合は、工場の有害排出物が原因の公害だと特定できる。それと同様に、こんなに多くの人が同じ症状になるのは、個人の弱さでは済まされない、もっと大きな環境、ひいては現代社会の枠組みそのものに問題の根が隠れているのかもしれない。
「ムッ、ムム。どれが子供の作品なのだ?」
娘の小学校で工作展示会が開かれ、出かけてみて驚いた。どれもこれも立派すぎる大人の作品で、子供の手作業の跡がない。
学校の先生方は、こうした親の努力を否定しない。むしろ好意的な雰囲気さえある。親といっしょにアイデアを出し合い、作り上げる喜びは何にも代え難い経験になるからだろう。アメリカの親はよく頑張る。
上の娘が高校生の時にこんな事があった。ある朝六時ごろ、目がさめると家の中に人の気配がした。娘のクラスメイトらしいが見たことのない女子高生七〜八人と付き添いのお父さんが台所を占拠し料理をしていた。日本食の作り方を教室で発表するのだという。そのお父さんは授業まで同行したという。アメリカの親たちは子供のためによくやるよ、ホントに。
あるお父さんは、子供の工作を手伝っているうちに夢中になり、
「こら、触るな!」
と怒鳴ってしまったという。
息子が小さい頃、友人と協力してイオラニ宮殿の模型を作ることになった。この二人が凝り性で、それも細部にこだわること甚だしく、宮殿内の小さな額にほとんどの時間を費やした。結局、イオラニ宮殿深夜工事は私が請け負うことになった。
そういえば、中学時代の息子のプロジェクトでとんでもない工作があった。潜水艦を作り、浮いている状態から一度沈ませ、再び浮上させるという難問だった。「そんなこと不可能だ」と文系出身の私は叫んだが、手伝うしかない。
何種類かの潜水艦を試作し、ブクブクと泡を吹き出す胃腸薬「アルカセルツァー」を使い、バケツの水の中で毎晩遅くまで格闘した。「何でこんな事をしてるんだ」と自問しながら、潜水艦の泡を見つめていた。うまくいかないと「こらー、触るな。遊ぶな」と私も怒鳴っていた。(人のことは笑えない)
教室では大成功、理科の先生に請われて作品は学校保存になったという。話を聞いて苦労が報われた気がした。私も少しだけ〃アメリカの父親〃に近づいたかもしれない。
あの時使った「アルカセルツァー」がまだ引きだしに入っているが、薬として飲んだことは一度もない。
ぐっすり眠れた朝は、ありがたいと痛感するようになった。若い時には思いもよらない事態だが、夜中に目が覚めることもある。
「毎晩二時に目が覚めて困る」というお年寄りに会ったことがあるが、私もちょっと仲間入りしたらしい。一度起きると眠れないものだ。そんな夜には、普段気付かない音が聞こえてくる。
まずは妻の寝息だ。気持ちよさそうに寝ている。今までは私が先に寝ていたので、こういう状況は起なかった。「びきがうるさかったわよ」と妻に抗議されたことは何度かあったが、いよいよ立場交代か。
次に、夜空を包むような虫たちの鳴き声が聞こえてきた。風に揺れる木の葉の音、屋根の上を歩くネコや小動物の足音。自然にきしむ柱や梁の音がギーとか、キッとか不定期に鳴る。
眠れないので水でも飲もうと台所に行くと、冷蔵庫の大きな音が聞こえる。昼間は他の音にかき消されているが深夜になって初めて気付くゴーという大音響。冷蔵庫は昼夜休まず働いているんだな。エライ!
寝床に戻って目を閉じると、近くで大きな音がする。目覚まし時計の音だ。カチ、カチ、カチと生真面目に時を刻んでいる。
しばらく目をつむり寝ようとするがダメだ。時計をにらむと、十五分しかたってない。
世界の不幸を一身に背負ったかのような錯覚に陥る。「何故、全世界の人が寝ているのに、この私だけが眠れないのか」などと叫びたくなる。
「眠れなくても死ぬわけじゃない」と居直って目を開けると、室内が案外と明るい。満月の白い光がカーテンを透かして入って来る。
「俺には明日がある。ハワイ報知で働くのだ。寝不足で文章を書くのはつらい。寝るゾ」と決意を固めても、脈絡なく昼間の出来事がよみがえり、心の引き出しから余分な悩み事まで引っぱり出し、アリがコップの縁を回るようにぐるぐると考えてしまう。
盲腸で入院した夜を急に思い出した。病院の夜は長いんだ。ホスピタルでこの記事を読んでる人がいるなら一日も早い退院を、と祈る。
ほんのり空が明るくなり、鳥たちが目覚めたようだ。何をささやき合っているのだろう。本格的に歌い始めた。明るく美しい鳴き声だが、寝不足の私には〃恨めしき朝ぼらけかな〃だ。
目覚まし時計をふと見た。「し、しまった、遅刻する」と頭をかきむしりベッドを飛び出した。
ハワイで走る人を見かけたら、それは泥棒か日本人に違いない。
アラモアナ・センター周辺やワイキキで観察すればすぐに分かる。横断歩道と見れば日本人は走り、バスが到着すれば必ず駆け寄る。老いも若きも例外はない。
かく言う私も、日本ではよく走った。駅まで走る。駅の階段で走る。バス停まで走る。
混雑する駅の通路はスキーのアルペン種目のように人を縫って走る。乗換駅では、必殺階段四段飛ばし。仕事や学校に遅刻しそうな時は、ドアが閉まる寸前に隙間に滑り込む。
ところがハワイに来ていつの間にか、そんな自分に違和感を覚えるようになった。
フィリピンの田舎では、走っている人を見かけなかった。そのかわり、水牛がのんびりと池から顔を出していた。私が乗った路線バスが故障した時も、乗客は何事もなかったように、次のバスが来るまで日陰で待った。時間は大河のようにゆったり流れていた。
私が「走る日本人」の一人だった頃、インドネシアのジャカルタ空港に初めて降り立った。約束の迎えが来ないのでかなり不安になったことがある。来るはずの知人は一時間もそれ以上も遅れて来たが、〃申し訳ない〃というそぶりはみじんもみせなかった。
知人の車で空港を出て、腹ごしらえにインドネシア料理店に寄った。伝統的なインドネシア料理はこうやって素手で食べるんだとうまそうに口に入れた。カリマンタンのジャングルに長年住んでいた彼は、現地の人の時間概念を説明してくれた。約束の時間が午後二時なら、夜までに集まれば問題なしだな、と笑った。
時間という枠組みが大事だと考える日本のような社会もあれば、人と人との関わり自体を大切にする社会がある、と彼は話してくれた。
「五分も遅刻するとは何事ぞ!」と憤る社会は、距離をおいて眺めると確かにどこか変な気がする。
特に用がなくても、反射的に走り出す日本人は、やっぱりどこかおかしい。
私が「走らない日本人」になったのは、なぜかと考えた。日本に居座っている目に見えない束縛や圧迫から物理的に遠ざかったからかもしれない。
「あなた、時間限定の大安売りですって」「よし、急ぐぞ」(!)
でっかい木だな。巨大なカリフラワーを地面に突き立てたような枝振りだ。小学校の校庭からよく見える。
たくましい枝を大空に広げながら、地面に向かっても根を下ろし、重たい枝を支えている。百年ぐらいの樹齢か、もっと長いのか、僕より長生きしているのは間違いない。
貿易風が強く吹いても枝や葉は威風堂々としている。この木一本だけでも辺りをうっそうとさせる雰囲気を持っている。
この木のそばに立つと、何とも言えぬ懐かしさがこみ上げてくる。
ところが、今日はどこかが違う。木の回りが何となく明るい。何かがおかしいぞ。「あっ」と息を飲んだ。
よく見ると一抱えほどの大きな枝が無惨にも切り落とされていた。切り口が白く痛々しい。
あまり大きくなりすぎて小学校の校庭を暗くした理由からか、安全のためなのか私は知らない。
名も知れぬ木よ、君は自分で動くこともできないのだね。暑さにも、日照りにも、まして腕を切り落とそうとする人間も避けることもできないのだね。
だけど、立派だよ。痛いとか、いやだとか、泣き言も言わず、同じ場所に立っている。切られたら傷口をさらすだけ。そのさっぱりした生き方が見事だ。
腕を切り下ろした人間のためにも、心地よい木陰を作ってやるのだからお人好しが過ぎるな。大好きな子供のためなら、腕一本ぐらい何でもないという顔をしている。
長い歳月には、台風も大嵐も、落雷も色々経験してきたし、枝が折れた事も何度もあっただろう。
名も知れぬ木の傷口を見ているだけで、勇気をもらった気がするよ。
何故か宮沢賢治の詩を思い出した。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテイカラズ
イツモシズカニ
ワラッテイル
よく見ると切り口の回りに何かがあるぞ。小さいけれどもしっかりと若芽が生えているじゃないか。
潔さだけじゃなく、したたかさも持っているんだね。
「そんなはずありません」
図書館で本を借りようとした十歳の娘は、係の人に問いつめられた。
「コンピューターの記録では返してないわ」
「いいえ、ちゃんと今日返しました」
「ちょっと待ってらっしゃい、今、本棚を調べて来るから」
娘は心配そうに担当者の帰りを待った。
「本棚を探したけど、なかったわ」と担当者は語気を強めた。
私と娘は週に一回の割合で図書館に通っている。本の大好きな娘は、毎回十冊から二十冊の本を借りては、翌週までに読み終えている。
「図書館が私の家だったらいいのにな」と言うくらい娘は本が好きだ。借りた本はノートに題名を記入し、必ずチェックして返却して来たが、こんな対応は数年間記憶がない。
お気に入りの本がどの本棚にあるか熟知している娘は、担当者が見落とした別の本棚から問題の本を持ってきて、受付デスクに乗せた。
怪訝そうに職員は本のIDをチェックした。本はちゃんと返却されていた。
推測するに、職員の誰かが娘の本の返却処理をうっかり忘れて本棚に戻したのだろう。
今年一月から行きつけの図書館のシステムが変わり、職員が入れ替わったことが原因だと私は思うが、これで二回疑われたことになる。
窓口係員はコンピューター表示に従い、職務を果たしただけなので、責めるのも酷だろうと思った。
ところが三回目、同じように疑われた時は自宅に図書記録ノートを取りに帰り、話があるとボスに面談を申し出た。
「このノートの記録を見てほしい。きちんと返している。わずか二〜三カ月で三回も疑われたことになる。本が大好きな娘の心を傷つけないでほしい。返却本の処理に問題がある」と話した。責任者は最後には理解を示し、「アイム・ソーリー」と非を認めた。
帰り道、娘は満足そうに言った。「お父さんのしゃべり方、私、好き。怒鳴ったりしないけど、ゆっくりと、きちんと話して、怒っているのが伝わってたよ」
「そうかい。まあ、人生色々あるけどさ、また来ような」「うん、私、図書館好きだもん」
ハワイは今空前の不動産ブームだ。
かつて日本人がハワイの高級住宅地にリムジンで乗り付け、「あれも」、「それも」と指さして高値で買い取った〃神話〃が残っているが、最近の不動産ブームは当時をしのぐ勢いだという。
一九九五年から今年までの不動産売却中央値のグラフをみると、二〇〇〇年頃から価格は上昇に転じ、上がり続けている。五月の売却中間値は一戸建てが四十四万五千ドル、コンドミニアムが十九万五千ドルになった。
一九九五年頃は物件を市場に出しても売買成立に平均八〇日を要したが、今は二〇日かからない。
不動産関係者から話を聞いたが、家の値段が上がっても、売れ続ける理由があるという。
第一の理由は、住宅ローンが四十年来の低利息で、たとえ住宅価格が上昇しても月々の支払いが低く抑えられるからだという。
もう一つの理由は、戦後生まれのベビーブーマーが引退時期に入ったこと。米本土の団塊の世代が、住みやすいハワイの家を買ったり、投資に利用している。
インフレ懸念でFRBによる政策金利値上げが今後予想され、超低金利も底を突こうとしている。
ところで、世の中は、投資目的の不動産を持つ人と、持たない人の二階級に分かれている。
大規模投資家は不景気こそビジネス・チャンスと、十年周期といわれる不動産ブームで利益を得たことだろう。利益は回り回って社会に還元されるというが、庶民に届くのはいつだろう。
ブームに気づいてワン・ベッドの居住者をあわてて追い出し、売りに走る小口投資家も少なくない。
不動産投資にはリスクが伴う。ロバート・キヨサトは著書『金持ち父さん、貧乏父さん』の中で利益を生む不動産を資産として持てと勧めるが、「不動産のすべてが値上がりするわけではない」と書いている。
ひとつだけ心に留めてほしいことがある。不動産ブームの最後の波をかぶる人達のことを。
統計によると、ハワイの五分の一は貯金ゼロかマイナス世帯だ。
借家を追い出されて行き場を失うシングルマザー、環境の悪い場所に押し出され転校を余儀なくされる子供たち、途方に暮れる高齢者など思い浮かべてほしい。
土地は本来誰のものでもないはずだ。
「ええやん、ええやん、完璧や!」とコテコテの大阪弁で言われると、自信がなくても大丈夫な気がしてくる。大阪弁は明るくて、快活な言葉だ。
日本にはたくさんの方言があるが、東京圏に育った私には、お国なまりを聞くたびにうらやましい気持になる。
「おいやー、どしちゃ」(久しぶりだな、どうしてた)と津軽の人にばったり会うと、つい近況を話したくなる。
「金ねえんだ」
「せば、銀行いぐが」
「んだな」
「わりな」
「なも」(気にするな)
鹿児島弁を話してる人を見てると、みんな西郷どんのように太っ腹で、愛嬌があるように思えてくる。
「あいやー、しもた」
「あったらし」(もったいない)
「ほんのこて、おもしってごわしたなあ」(本当におもしろかったな)
私の家内は愛知県出身なので、名古屋弁には格別な愛着がある。
「そんなこと、あらすか」と言われて、〃アラスカ〃の話をしているのかと間違えそうになった。
「でゃーがく(大学)からドリャーブ(ドライブ)して、きゃーる(帰る)でな、おみゃー(あなたの)のしゃーふ(財布)渡してちょーだゃあ」という調子で話してる。
熊本弁では、「あの人」を「あん人」と言うが、東京のベーカリーに行った熊本人が「あんパンと、あんパンと、あんパン下さい」と別のパンを注文したつもりが、〃アンパン〃が三個来た、というジョークもある。
「元気しとんなはっですか」
「元気しとるです。あーたは、どぎゃんですか」
〃どぎゃん〃と言われると、心臓がドキンとする。そういえば、熊本弁は英語から変化したという説もある。「ばってん」(でも)という接続語は、but
thenからきたらしい(ホントかな?)
英語で驚いちゃいけない、フランス語に近い方言もある。
伊藤秀志が秋田弁で歌う「大きな古時計 ZuZu バージョン」は初めて聞くとフランス語に聞こえると評判だ。
最後は土佐弁でジャンケンをしてお別れです。
「グとパのそろいぞね!、ぞーね!ぞおーね!、ね!、ね!」
「ゴミ問題を取り扱ってください」と先日読者のMさんからお手紙をいただいた。
ハワイではゴミの分別なしに埋め立て地にドーンと放り込んでいる、と来布当初の私は怒っていた。
しかし実は、不十分ではあるがゴミの分別収集を実施していた。
一般ゴミ以外に、木の枝、葉、柴などのグリーン・ゴミと、粗大ゴミは、決められた日に収集車が巡回し、それぞれの処理場に運んでいる。
また、アルミ缶、ガラス瓶、新聞紙などは収集用の大型コンテナが学校などに設置され、リサイクルも行われている。
ホノルル市役所によると、オアフ島一年間のゴミ総量は一五〇万トン。家庭ゴミの一五%がリサイクル可能で、二五%は埋められるゴミだという。
ホノルル市は一九九〇年、カイルア地区を対象に各戸別のリサイクルゴミ収集のテストを行った。
昨年十一月から今年二月末までは、ミリラニの一万一千世帯をモデルケースににリサイクル収集試験運用を実施した。ゴミ出しには新調のグリーン・カートと従来のグレー・カートの二種の容器を使い分けた。
何種類ものゴミ分別に日夜格闘してきた日本人から見るとまだまだ不十分と感じるが、米本土のリサイクル方式に倣っているようだ
サンフランシスコでは、三種のゴミ・カートを使用。ブルーはガラス、プラスチック、アルミ缶、新聞紙などのリサイクル可能なゴミ。グリーンは木の枝や草や柴、残飯など。ブラックはリサイクルも埋め立てもできない危険物用。
ワシントン州タコマでも三種のゴミカートを使うが、一般ゴミ容量に比例してゴミ収集料金が高くなる。
オアフ島ゴミ問題の最近の焦点は、新たなゴミ埋め立て地選定、違法ゴミ投棄対策、費用節約からお尻に火が付いたリサイクルなどが挙げられる。
過去に何でもかんでも突っ込んだゴミ埋め立て場が、今後どんな問題を生むかは未知数。オアフ全戸で分別収集徹底の道のりは遠い。
Reduce
,Reuse, Recycle
この3つのRを心がけようと、リサイクルの歌まで作られたが、大切なのは一人一人の意識。ゴミを減らし、資源の再利用や再生利用を心がけたい。
高所恐怖症なんて自分には関係ないと思っていた。
ところが、ある日、背筋がスーとして、足許が崩れ去るような感覚がやってきた。
川沿いの山道を辿って坂道を車で登ると、日本ではたいていダムに行き当たる。車を降りてダムの通路をしばらく歩き、ひょいと下をのぞくと、巨大なコンクリートの堰が見えた。これがいけない。「うっ、吸い込まれる」
子供の時には木登りはもちろん、神社の鳥居にもよじ登り、高いところから飛び降りても何でもなかったのに。
子供と遊園地に行っ時に、観覧車に乗るという致命的なミスを犯した事もあった。ドアが閉まってから後悔した。
「父さん、ほらすごいよ。あんな遠くまで見える」
「‥‥‥‥」
「すごい、車がマッチ箱みたい」
「‥‥‥‥」
「どうしたの、気分でも悪いの」
「あのね、父さんは高い所が苦手になったみたいよ」と妻が取りなしてくれた。
「怖いの?」と子供は素朴に聞いてくる。
「いや、そうじゃないんだ」と言い訳しても、床に座り込んだ姿に説得力はなかった。
もっとマズかったのは家族で旅行した時に、頂上付近まで一気に登るロープウエイに乗ったこと。
「父さんは目をつぶっているからな」
「もったいないわね。こんなにきれいな景色なのに」と妻はいう。
「俺だって、そう思うよ。なんでこんな体になっちまったんだ」
筆舌に尽くしがたい大自然のパノラマが眼下に繰り広げられた(らしい)。料金を払いながら、何も見ず、脂汗を流しながら苦痛に耐えているとは実に矛盾に満ちている。
読者のあなたは、笑ってこの欄を読んでいますか、それとも私の仲間ですか。
ハワイでは怖い思いはしていないが、一箇所だけ鬼門がある。Hー3フリーウエイのカネオヘ側からトンネルに入る部分だ。支柱で支えられた高架部分を走ると、足許から背中にスゥーとした感覚が走り、実に頼りない気分になる。
この頼りなさこそが人間存在の不確性の証明であり、高所恐怖症の隠れた原因に違いない。その頼りなさを克服するため、人はあえて高い山に登り、自分を駆り立てて人生の高嶺を目指すのだ。
うーん、あまりの論理の飛躍で頭がクラクラしてきだ。
「一番好きだった絵本は何かな?」と大学生になった二人の子供に聞いた。
『月の坊や』と言ったのは娘。「細長い形をしたへんな絵本で、おもしろかったよ」
「僕は、断然、『チキンスープ・ライス入り』だね」と息子も嬉しそうに話題に入ってきた。「大好きだったから、母さんに本文と絵を全部書き写してもらったよね」。「あたしも覚えているわ、その手製の本、表紙はハトサブレの黄色い厚紙だったね」と娘。
聞いただけで胸がキュンとなるような絵本の題名が後から後から出てきた。
「『ぐりとぐらの』の最後に出てくる黄色いカステラはうまそうだったな。父さんが勝手に付けたメロディーまで覚えてるよ」と息子が言う。
「『ラチとライオン』は勇気をくれる本で大好きだった」と娘。
「『ふたりはともだち』に出てくるがまくんとかえるくんの友情はじーんときたよ」と息子。
「『からすのパンやさん』にはこれでもかっていうほど沢山のパンが登場しておもしろかったわ」と娘。
長女が一歳にならない頃から、私は毎晩絵本を読んで聞かせた。英才教育とかじゃなく、私が絵本が好きだったから。
絵本は、子供用の本ではなく、親が子供に読んで聞かせるためにある、という福音館の松居直氏の言葉に納得した。
あぐらをかいて座り、そこに子供をぽこっと入れて絵本を開くと、親子二人で冒険の世界に出かけるようだ。
『あさえとちいさいいもうと』を読んだ時、小さかった娘は泣いた。『スーホの白い馬』の時は息子が涙をこらえていた。『だいふくもち』の独特の言い回しに子ども達は引き込まれた。
赤羽末吉の深みのある絵、推敲を重ねた瀬田貞二の翻訳、山脇百合子の温かみのある挿し絵、林明子のツルンとした質感、田島征三のとぼけた絵。何回読んでも飽きの来ない美しく力ある文章と、想像力をかき立てる絵が良い絵本の決め手だ。
長女が小学五年の頃にはCSルイスの『ナルニア国物語』を夜、枕元で読み聞かせたが、全七巻を読み通した。
感性を豊かにし、想像力を広げる絵本は、子供にとって「心のパン」だ。いっぱい食べさせてやりたい。
さだまさしの「案山子)かかし)」という歌が出社途中のカーラジオから聞こえてきた。
「元気でいるか」、「友達できたか」、「今度いつ帰る」
と、都会に出ていった子供に親が切々と語りかける内容の歌だ。
若いときは嫌いだったこの曲を、今は親の立場になって聞いている。結局、報知の駐車場に着いても最後まで聞いた。
ちょうど二日前の夜、娘を米本土の大学に送り出したところなので、歌詞が心の琴線に触れたらしい。
あの日の夕方、あわただしく自宅で夕食を囲んだが、小学六年の末の娘は、「お姉ちゃんが行くと、寂しい」と思うあまり、一口箸を運ぶと見る間に目が充血し大粒の涙がこぼれ、自分の部屋にかけ込んで空港までは来れなかった。
私はエアポートの駐車場に車を停め、カウンターまで歩いて来たが、大学生の娘は詰め込みすぎたスーツケースに悪戦苦闘。重量オーバーで二十五ドル払い、手荷物で持っていくことになった。
私は思わず笑ってしまったが、「昔のあなたと随分変わったわね。以前のあなたなら、とっくに怒っていたわよ」などと妻に指摘され、「そうか、迷惑かけてたんだな。悪かったな」と反省しながら、セキュリティーの前まで三人で歩いた。
夜の空港は昼間と違い、ちょっと寂しげで、広く感じる。
「それじゃ、元気でな」とありきたりの挨拶しかできない。
「うん、父さんも」
娘は係官から手荷物チェックを受け、靴も脱がされ、向こう側に出た。
「振り返らないね」妻と二人で話すうちに娘は見えなくなった。
きっと、娘だって、泣き顔なんか見せたくないよな、と私は思った。
もう何回も経験している見送りの場面だ。慣れているし、特段涙も出ない。
それでも、見送ったその夜と翌日、心が重く、なんとなく疲れていたが、その理由が分からなかった。
さだまさしの歌を聞いて、自分がどんな気持ちの中にいるのか、やっと気がついた。
ハワイは今、見送りの季節だ。たくさんの親たちが私と同じ気持ちを味わっているだろう。
「元気でいろよ」
「ほとんどの市民は、静かな絶望の生活を送っている」
こう語ったのは、哲学者、思想家のヘンリー・デイビッド・ソロー(Henry
David Thoreau 1817-62)。
ソローは一八四五年、マサチューセッツ州ウォールデン湖のほとりに小屋を建て、自給自足で二年間を過ごした。その経験をまとめた著書『ウォールデン、森の生活』は静かなブームとなって久しい。
ソローの政治的主張をまとめた『市民の抵抗』は、ガンジーやキング牧師の非暴力不服従運動に大きな影響を与えている。
今から一五〇年前のアメリカに消費社会が出現、人々は非人間的労働に組み込まれ、家賃や土地の奴隷になったとソローの目には映り、冒頭の言葉を発した。
「自分が自分を奴隷として働かせることこそ最悪のことだ」とも言う。
一五〇年たった今、生活は益々華やかになったが、家や車やカードローンに追われ、〃静かな絶望の生活〃を強いられるのは昔と変わりない。
結局のところ、「何かを買う」ことだけが人生の目標になってしまった現代だが、ソローの言葉は傾聴に値する。
「人間には、余分な物を手に入れる以外にも取るべき道がある。それは、地味な 苦労から得た余暇で人生の冒険をすることだ」
ソローの時代、鉄道建設が始まり、開発が津波のように押し寄せたが、次のような発言はソローが環境保護運動の父と仰がれる根拠となった。
「ほとんどの人が自然に関心を寄せず、自然の美しさという恩恵をわずかな金額で売り渡している」
「大地を楽しめ、けれども所有するな」
ソローが作った小屋は雨漏りがするほど粗末なものだが、ときおり訪れる友人や木こりとの語らいは実に豊かなものだった。
「私の家には三脚の椅子があったが、一つは孤独のため、二つは友情のため、三つは社交のため」
一人暮らしの理由をソローはこう語る。「私が森に行ったのは、慎重に生きたかっただけで、生活の本質的な事実だけに向き合いたかったから」
繰り返しの毎日からしばし離れて、湖畔でゆっくり過ごしたい。
「あの喫茶店のマスター、今頃どうしているかな」。
家内と話していると数年に一度必ず話題にのぼる店がある。
井の頭線の小さな駅から線路伝いに歩くと、踏切近くに小さな喫茶店があった。
ドアを入ると店内は横に長い。暗めの照明のせいか奥のカウンターに立つマスターの顔が陰になる。右手には八人で囲めそうな大テーブルが一つ。その他は、二人で向き合う小テーブルばかり。
僕と家内は結婚前、よくここで待ち合わせた。
マスターは、かすれた小声で、「いらっしゃいませ。何にいたしますか」と言う。僕らの会話をじゃましないように、気を配ってくれている。五十歳前後と見えた細身のマスターは、いつも寡黙だった。
家内が一人で店に行くこともあった。コヒー一杯で何時間も粘り、本を読んだりノートに何か書き付けても、嫌な顔一つみせない。
二十年以上も前のことだから、当時のまま喫茶店があるとは思えない。
「あのまま、あそこにあるといいね」と家内が言う。
「うん、そうだね。マスターは元気かな。あのかすれた声を聞きたいね。なつかしくてまた来ました、なんて挨拶したいな」
店の名前は「まろうど」。古語の「客人」から取った名前だろう。二十年たっても覚えているのは、マスターの人柄のせいだと思う。
記憶によっては、一枚の写真のように鮮明に思い出せるものがある。目を閉じると、喫茶店に入った場面が目に浮かぶ。右でも左でも見ることができる。室内のちょっと重めの空気も、コヒーの香りも、静かな音楽もよみがえる。外に出た時のまぶしい太陽や、ふわっと通り過ぎた風さえ覚えている。
だから、あの喫茶店の話をしていると、家内と僕は二十歳代に戻っている。
甘酸っぱくて、真っ直ぐな時代。不器用で、遠回りする年頃。
誰にでもそんな時があった。
もしかしたら、そろそろ僕らの番が来たのかもしれない。
つまり、僕らがあのマスターの役割を演じる時かなと思う。
若い二人を静かに応援できる、かっこいい中年でありたい。
いい加減にしろ、自動車泥棒!
車の持ち主がどんな気持でいたか、お前は知らないだろう。
家族の看病のため病院に通う足として車を使っていたんだ。
車は数日後に発見されたが、ハゲタカに襲われたように金目の物は全部剥がされていた。
大通りに止めた車にはアラームがちゃんとセットされていた。
盗人は手を大げさに広げ、「困ったアラームだ、また故障か」と言いながら道行く人にも笑いかけ、手慣れた様子でアラーム解除の小細工をしたのだろう。
ある種の自動車用防犯アラームは、その手の盗人には障害にならない。
その上、公共の場所では誰のアラームだか見分けがつかない。
アイスなど覚醒剤欲しさに何でもやるという犯罪粗暴化で自動車泥棒が増えているのか。
ホノルル警察年次報告の自動車泥棒件数は、
九九年=三、九九七件
〇〇年=五、二一四件
〇一年=五、五〇七件
〇二年=八、四八八件
〇三年=八、二五三件
と推移している。
昨年の統計で単純計算すると、オアフ島では一日に二十三台の車が盗まれたことになる。
ホノルル警察は盗難被害に遭った車の上位十種を発表している。一位が九五年式ホンダ・シビックEX、二位は九〇年式トヨタ・カムリ、三位は九〇年式ホンダ・アコードLX、以下九六年式アキュラ・インテグラLS、九一年式トヨタ・カムリと続く。
どうしたら自動車泥棒を防げるのか。正直なところ防ぐのは無理なようだ。
プロは車もセキュリティーも研究していて、アラーム付の車でも三分で事足りる。エンジン始動の技も、〃直結〃、ねじ回し、押しがけ、色々方法はある。
車のステアリングに防犯用鉄パイプを付ける方法がある。赤や黄色の長い棒状の器具を見たことがあるだろう。泥棒にノコギリの用意がなければ安全だ。
ロックは絶対忘れない。盗難保険特約には入る。車内に目立つ物品を残さない。セキュリティー・アラームをセットする。監視のない場所に長時間置かないなど、やれるだけの事を確実にして、車泥棒に対処しよう。
本当に何という世知辛い世の中だろう。何とかならないか。
埼玉県北部の県境に妻沼(めぬま)町がある。田園風景が広がる以外何の取り柄もない小さな町だ。
人口三万の田舎町だが、日本全国に誇れるものが一つある。それは、「妻沼滑空場」だ。
普段はのんびりとした利根川の河川敷も、毎年三月には全国五十の大学チームが集まり、「全日本学生グライダー選手権大会」が開催される。
大会中はグライダーがひっきりなしに離陸し、白い機体が青空高く旋回する。滑空時間、飛行回数共に日本一の妻沼滑空場は、まさにグライダーのメッカだ。
日本に住んでいた時、新聞で大会を知り興味半分で出かけたが、一度で魅了された。
初めて見たグライダーは思ったより大きく、全幅が十七メートルもある。強化プラスチック製の機体が多く、見るからに軽そうだ。パイロットは、トンボの目玉のような透明カバーを持ち上げ座席に乗り込む。
ワイヤーを機体につなぎ、機械で一気に巻き上げる。グライダーは草原をしばらく滑走して、ふわっと浮いたかと思うと風切り音を残して凧のように急上昇する。ワイヤーを外し、気流を捉えると、大空はグライダーの庭となる。大きな弧を描きながら機体はみるみる上昇する。「俺も飛びたいな」
今から五百年前、天才レオナルド・ダ・ビンチは空にあこがれ、飛行機の設計図を描いた。
モンゴルフィエ兄弟は二百年前、気球の初飛行を成功させた。
百年前ライト兄弟はキティーホークの砂丘で、五十九秒間空を飛んだ。
中島みゆきは二十六年前、人は鳥だったのかもしれないね、と作詞作曲した。
先週台風
号で河川の増水が起き観光バスが立ち往生したが、バスの屋根に登って助けを求めた三十七人は深夜腰まで水に浸かりながら「上を向いて歩こう」を歌って励まし合い、翌朝救助された。
八木重吉は、空よ/おまえのうつくしさを/すこしくれないかと詠んだ。
ギリシャ語で人間のことをアンスローポス(ανθρωποs)というが、アンは「上へ」、プロソーポンは「顔を向ける」という意味。
人は本来、「上を向いて生きる者」なのかもしれない。
昨日アロハ・スタジアムでマーチング・バンドの大会を見てきた。
何とかしてその感動を伝えたいが、筆と紙をもってしては表現不可能と降参するしかない。
とにかくこれは、青春と情熱と汗と友情の爆発だ。
マーチング・バンドのシーズンは雨の時期と重なる。先週土曜のカメハメハ校での大会は土砂降りにたたられ、場所を体育館に移して結局表彰式は夜中十二時を過ぎ、生徒達が自宅に戻ったのは二時ごろだという。
それでも、高校生のバンドメンバーは、めげない。
昨日のアロハ・スタジアムは、雨を覚悟した私が拍子抜けするような晴天に恵まれた。演技する生徒のまなざしまで見える最前列付近に座ったのが良かった。
真昼のように明るい証明に照らし出され緑の芝に、色とりどりのユニフォームが映える。各地の高校生が日頃の練習の成果を胸を張って披露しているのが分かる。
白いコスチュームにマントを付けた背の高い指揮者が、目の前にいる。全身を使って跳ねたり踊ったりしながらバンド全員を束ねている。こちらを振り向いた形相は怖いくらい真剣だった。個性と自分らしさが全面に出ている。
アメリカ人の若者は自己主張が強い。ソロでトランペットを吹いたり、目立つ振り付けでダンスしたり、一番高くまでライフルを投げる時は最高の気分だろう。
けれどもマーチング・バンドでは、個人技のオンパレードに終始しない。「個」の強いアメリカ青年たちが、「全体」のために自分を捨てる精神がどのバンドにも貫かれている。だから、見終わってすがすがしい思いが残る。
投げたフラッグやライフルを落とした生徒もいた。ソロで音を外したトランペットもいた。表情に落胆が見えるが、バンドメンバーはそれでもめげない。列を少し外れて本当は二歩くらい前に出たいクラリネットも辛抱我慢だ。
ブラスの音量が最高潮に達し、シンバルが鳴り響き、特大の太鼓がドーンとうなり、グランド一杯の生徒達の動きがピタッと止まる。しばらくの静寂の後に拍手の嵐が起きる。
やったね、最高だよ、素晴らしかった、ありがとう。また来るよ。
「冬のソナタ」の魅力は何だろう。率直な愛の言葉、哀愁漂う音楽、目を離せない展開、美しい景色、魅力あふれる俳優などすぐ思い当たる。
TVドラマ「冬のソナタ」は二〇〇二年一月から韓国KBSで放送、平均視聴率二三・一%という驚異的ヒットになった。日本ではNHKが二〇〇三年四月から放映し社会現象になり、今年の年末には日本語字幕の完全版を放映予定。
NHKは紅白歌合戦視聴率アップの秘策として、主演男優の「ヨン様」ことぺ・ヨンジュンに生出演を交渉中だが、本人は気が進まないようだ。
冬のソナタは僕らが知っているTVドラマとは何かが違う。見ている人はブラウン管の外で第三者の立場にとどまれない。
「君は誰を愛しているの」とカン・ジュンサンに言われると、画面を見ている人は思わずドキッとする。男でも女でも、若者もシニアも、このストレートな質問を受け流せない。
チョン・ユジンはすぐには答えられず、困惑の表情を浮かべる。
それを見ている我々も一緒に苦悩する。「あの時あの人に率直に伝えていれば」と、何十年も前の記憶に浸ってしまう。
物語の設定には無理がある。出てくる人物はパターン化され、特別凝った画面作りでもない。それでも強烈に引きつける。
僕はこう思う。主人公のカン・ジュンサンも、相手役の女性チョン・ユジンも、実は僕ら自身の姿だ。
カン・ジュンサンのように愛は語れないが、あんな率直な言い方をしてみたい。チョン・ユジンの揺れる心はよく解るし、あそこまで真っ直ぐに愛されたい。
他の登場人物では、生真面目で自信の持てないキム・サンヒョクも、自己中心でずる賢いオ・チェリンも、我々の心に住む別な自分と言えないだろうか。
冬のソナタの最大の魅力は〃自分探し〃だと思う。画面で一つの物語を見ながら、心で別の物語を作っている。せりふの間が長いのも、回想シーンや音楽だけの場面が多いのも、僕らの物語を作るための舞台装置にみえてくる。
全二十話の前半が特に良いが、最終回については異議ありですね。あなたは誰が好きですか。僕は、例の「キム次長」が気に入ってます。
金曜日の夜、息子から不安げな電話連絡があった。私は重い心で現場に駆けつけた。
人気のない暗い通りにパトカーの青いライトが目に入り場所はすぐに分かった。車を降りて近づくと、誠実そうな若い白人警官がいた。
「この年式のシビックはよく盗難に遭います。警察としては、今できることは特にありません。書類を出して待っていて下さい」と申し訳なさそうに話した。
一日に平均二十三台盗まれると十月の「潮流」に書いたばかりだったが、家族の一人がついにやられた。ドアロックも警報アラームも何の役にも立たない。
車はローンで買ったもので、息子が働いて返済中だ。車がないのに、残った借金を返すのは辛いと打ちのめされた。
息子は保険会社と長時間の電話連絡を行い、送付された書類に記入、必要書類を添え提出した。幸い盗難保険に入っていたのでかなりの程度は戻って来るし、当座のレンタカー料金も保険会社持ちになった。
そんな矢先、今度はそのレンタカーが盗まれた。
息子の話では同じ警察官が担当し、保険金詐欺ではないかと最初疑われたという。客観的に見ればそういう誤解も成り立つが、賢い欺師なら二週内同一区域で事件を発生させたりしない。
息子は仕事をしながら車のローンと保険代を払い、一方で大学生として暮らしている。最初の盗難はバイト先付近の路上だった。
もうレンタカーは借りないことにしたので、息子を大学やバイト先に送迎する生活になった。車の中は案外話しやすい空間なので、日頃不足がちな会話が成立する。これには感謝している。
自動車保険の書類は公証人の署名が必要となり息子と二人で銀行に出向いた。
応対した二十歳代の男性銀行員は息子を見て「あれ、この前も盗られたよね」と驚いた。
「ええ、今度はレンタカーです」
「大変だね、僕も同じだったよ。最初はシビック、次はレンタカー、その次もシビック」
思わず三人で苦笑いした。その場は不思議な一体感と優しさに包まれた。
連続して車の盗難に遭うのは珍しくなさそうだ。
「女は感情的、男は論理的」。結婚当初からそう思い込んできた。
だが最近やっと自分の間違いに気がついた。
「女は総合的、男は単細胞」。この方が事実に近いと思う。
ペンシルバニア大学で男女の脳の働きをCTスキャンで調べた。この結果、ものを考えたり会話する時、男は脳の一部を集中して使い、女性は脳全体をくまなく使うことが分かった。
人間の脳は論理面や言語を支配する左脳と、芸術や創造性を支配する右脳があることは知られているが、左右の脳をつなぐ部分にも男女差がある。十代の女性の場合、左右の脳をつなぐ機能は男性に比べ四〇%近くも活発というデータもある。
夫婦の会話で意志疎通がよく問題になる。「なんでそんな結論になる。女は感情の動物だから飛躍するんだ」と論理的なはずの男が怒りだすのはなぜだろう。それは、並列高速処理コンピューターを使う女性に、旧式単純計算装置を使う男性が追いつけないからだ。
ステップ1の次はステップ2、その次は必ずステップ3を通過しなければならない。筋道立てて、頑固に進むのが論理的だと男は疑わない。
女性はこうしたステップを瞬時に終え、論理性以外の経済性、感性、芸術性などの多方面から考察している。これが女性の特徴であり、男に誤解されるところだ。
男は単細胞そのものだから一つのテーマに深く入り込める。テレビでフットボールを見ている時は、妻の声を雑音に変換できる。趣味のゴルフやラジコン、コンピューター・ゲームには何時間でも入り込めるし、研究や仕事に没頭すると寝食も忘れ家族さえ置き去りにできる。これが男の強さであり、また弱さでもある。
「スーパーの帰り道にきれいな花が咲いてたわね、田中さんの洋服すてきだったわ、新しい店が開店しそうね」と母が父に話しかけた場面を急に思い出した。
「そうだったかな」と父がぼんやり答えると、母は「父さんは、いつも前しか見てないんだから、ほんとにしょうがないわね」とあきれてた。
私も最近、父の心境が分かるようになった。「前しか見てない」というのは実は間違いで、本当のところは「何にも見てない」が正解だよね、父さん。
「父さん、日本は凄いよ」と息子は興奮ぎみに話し出した。十日間の日本旅行を終え、私がエアポートに出迎えたところ車中で日本賛辞が止まらない。
「電車に乗る時も〃スイカ・カード〃を使うと一々お金を払わなくても改札を通れるんだ。その上、カードは改札機に入れなくても、かざすだけでOK」
「日本は凄いよ」という言葉を何度も聞きながら、私はちょっと鼻が高かった。今まで息子と口論なると、「それは日本のやり方で、アメリカでは違うよ」と切り捨てられることが多かった。だから、息子が日本を賞賛する姿を見て一人でクスクス笑っていた。
「話しのタネにとマクドナルドに寄って注文したら、出てきたのは本当に小さくて笑っちゃったよ。でも、店員のきちんとしたサービスには驚いた」
息子は東京の街をあちこちと歩き回ったらしい。「秋葉原はすごく変わった。お台場はおもしろいね。原宿も六本木も賑やかだった」。私は、「ふーん」と聞き役に徹した。
息子は二十歳になった。日本の成人式に合わせて大晦日ホノルルを出発した。
息子は車に興味があるから、日本のカーショップに入ってみたかった。でも場所を知らない。私の友人が助け船を出し息子を店まで連れ出してくれた。「好きなだけ見ていいよ、ここで待っているから」と店の入口で友人は息子に言った。一〇〇%の自由を与えられ息子は感激したらしい。「僕も歳を重ねてああいう大人になりたい。かっこよかった」としきりに関心していた。
「日本では二十歳というのは特別なんだね。大人としての自覚が出てくるよ」と真面目になって言う。
それを聞きながら、一人旅とはいい経験になるものだと改めて思った。息子にとって日本再発見の旅になった。
「うちの主人が死んじゃったよ」とそのおばあさんは英語で話しかけてきた。
「えっ、いつ」
「あれ、いつだったかしら、おかしいわね。葬式は先週終わったのに」と取り乱した。
「元気そうだったじゃないの」
「でも、心臓発作でね」
僕は思わずおばあさんの両手を取って話を聞いた。
「教会の葬式には、プログラム用紙が足りないくらいたくさん来てくれたよ」
僕らが話しているのは近くの小学校にある小さなプールだ。二人とも水に浸かっている。時刻は日曜の四時を過ぎて日も傾き始めていた。
監視員は二人、二十歳前後の青年がいつも楽しそうにおしゃべりしている。時間によってはかなり空いていて、プールの閉まる頃には僕一人で泳ぐこともよくある。シニアの人たちの多くは泳がずに水中を歩いている。
僕はプールでそのシニア夫婦と知り合った。随分親しくなったけど、お互いに名前も知らない。ご主人は僕より背が高く、足が少し不自由で、毎日決まった運動をしていたが、僕がプールに入ると手を上げてニコっと迎えてくれる中国系アメリカ人だった。おばあちゃんは日系人で誰にでも話しかける明るい人だ。
「あんた、今日も終わるのが早いね。泳ぎに来たと思ったら、すぐ帰っちゃうんだから」とおばあさんに毎回しかられる。
「うちの主人は十一年前に発作で倒れて九死に一生を得たの。十一年間も生かしてもらったと思って感謝している。今は苦しみのない天国にいるから安心よ。もう杖もいらないわ」と目に涙を浮かべながら、顔は笑っていた。
おばあさんと別れゴーグルを付けて泳ぎ始めたが、いつもより水がひんやり感じた。目がしみる。向こう側の壁が良く見えない。
「ほらッ、あれ!」
「うん、わかる、あれでしょ」
「喉まで出てるのに、思い出せない」
「そう、あれだよ、あれでしょ」
こんな会話が今日も世界のあちこちで交わされている。
映画「王様と私」に出ていた、頭のつるんとした、ほら、あれ。顔まで浮かんでいるのに、ウーン、ダメだ。
でも、子供の時に覚えた小学校の校歌は歌える。今でも教育勅語を諳んじる人も多い。
人間の脳には二種類のメモリー格納庫がある。一つは記憶を長期間保存できる脳の深い部分。もう一つは、ちょっとだけ記憶させる前頭葉の一部分。
口頭で教えてもらった電話番号を一、二分だけ覚えて電話をかける時は短期メモリーを使う。番号は次の日までは覚えていない。悲しい事に、この短期メモリー機能は加齢と共に能力が落ちるようだ。
「あれ、何しに来たんだっけ」と隣の部屋まで移動したとたんに忘れてしまう。しかたなく、元の部屋に戻り、同じ動作を繰り返す。
人間の脳は体重の五〇分の一の重さがあるが、心臓から送られる血液の五分の一は脳に行く。「ほら。あれ」と思い出せない時も脳は目一杯頑張っている。
我が家の小学六年の娘とその友達は記憶力抜群の真っ最中。ドラマ「冬のソナタ」の韓国語テーマソングを何回か聴くうちに二人とも最後まで「韓国語風」に歌ってしまう。なんという記憶力、少しは父にも分けてくれ。
妻は妻で、あのとき何を着ていたのか服の色まではっきり覚えている。
「僕がプロポーズした時、確か君はピンクの傘を差していたよね」 「違うわ。黄色よ」
「………」
とにかく、洋服と色は家内の脳の長期記憶に刻まれている。
僕の長期メモリーに入っているのは、「あれ、何だっけ」
「親父が階段から落ちて入院した」と日本の弟が連絡してきた。脊髄損傷だという。
七年半ぶりに成田に降り立ったが外は雪、吐く息が白い。
六人部屋の病室を訪れると、父は大声で何かを話していた。
「父さん、今日は珍しい人が来たよ」と、弟がまず神奈川に住む妹を枕元に呼んだ。
「おー、遠いのに良く来てくれたな」と涙声になる。
「もうひとり珍しいのがいるよ」と弟は僕を押し出した。
「父さん、大丈夫?」と話しかけると。
「何だ、晴彦か。来なくていいのに。ハワイから来てくれたか」と泣き声になった。
「首が痛くて、どうにもならんのだ。眠れんから辛いよ。痛くてたまらんから、一人でしゃべっているんだ。声を出せば少しはまぎれるからな」
父は実家の二階最上段あたりから階段を下まで転がり落ちた。頭からぐるぐると回って落ちて、首を打ったようだ。幸い脳には異常がなく、他の骨折箇所もなかった。
脊椎(せきつい)と脊髄(せきずい)の違いが良く分からないので調べてみた。脊椎は背骨、脊髄は背骨に守られた神経で脳まで繋がる大事な部分。脊髄が切れたり損傷を受けると再生不可能で、車椅子の生活や首から下の完全麻痺になる。
何度か見舞いに行くうちに、ひどい痛みは徐々に弱まった。ベッドで両足を持ち上げて「ほら、足は大丈夫さ」と父は話した。両手も動くようになった。
僕は、ハワイで買った人形を父に見せた。女の子がフラダンスをしている人形だ。
「父さん、ほらかわいいでしょ。元気になって、母さんとハワイに来てよ。目標があればがんばれるでしょ」
「そうか、ハワイか、そうだな、ハワイだ」と父は自分に言い聞かせた。父さん、待ってるよ。
「浦島太郎か」、七年半ぶりの日本帰国で気が滅入っていた。
成田からリムジンバスで大宮まで乗って、京浜東北線で東京方面に戻ったが、車窓の景色に驚いた。
「そんな馬鹿な」見覚えのあるビルがない。飛行機の疲れも加わってめまいがしてきた。
電車は何食わぬ顔をして新駅に停まった。「こんな駅がいつできた」通勤客や学生たちは当たり前のように新駅を利用している。
電車の中は、携帯電話でメールを打つ人ばかり。
重いスーツケースを抱え電車を降りた。エスカレーター乗り場に行くと、左側に一人ずつ乗って行く。「そういうルールができたんだ」と上を見上げた。
ハワイのキクTVで『そこが知りたい』という番組が放映されているが、〃今の日本の姿〃と思って見てはいけない。番組収録が今から十年かそれ以上も前の場合もあるからだ。
駅を出ると狭い路地の両側に三階建ての商店が建ち並び、雪が残っていたせいで冷え冷えとしていた。
久しぶりの日本で一番気になったのは、お年寄りの姿が増えたこと。杖をついて階段を上る人、くすんだ色のコートを着て背中を丸めて歩く人。街全体が、いや日本全体が高齢化しているのが実感として分かる。
実家のある埼玉県は全国一の若い県だ。具体的に言うと、六十五歳以上の人口比が一二・八%と全国で一番少ない。(一番高齢化が進んでいるのは島根県で二四・八%)
都内のオフィスや学校に通う人が多いのが埼玉県の特徴だが、七年前の六五歳以上の割合は一一・〇%だった。あれから一・八%も高齢者が増えている。
経済成長時代が終わり企業戦士がリタイア、少子化と高齢化が加速する姿を見て、日本全体が新しい生活スタイルを模索しているように僕には見えた。
カルトに気をつけよう。
身近な人で特に青少年が、急に消息を絶ったり、高額なセミナー合宿に行ったり、学校や会社を辞めて集団生活に入ったり、極端な信念を振り回したり、表情が硬直化するようなら要注意だ。
カルトは普通、青少年をターゲットにする。孤独で傷つきやすい彼等に、団体名を隠して巧妙に近寄り、洗脳プロセスに組み入れる。 一旦メンバーになると、常識では考えられない異常な行動に突き進む。その結果、家庭崩壊、経済破綻、精神障害などに本人が直面するばかりでなく、社会全体に大きな被害をもたらす。
教祖又はリーダーは、内輪のメンバーですら自分の欲望達成の道具としか考えない。
カルトとは、何らかの信念を堅く共有し、理想実現のために熱狂的な活動を行う団体のこと。目的追求のために詐欺や暴力、殺人もいとわない場合は破壊的カルトと呼ばれる。
多くの場合、「マインド・コントロール」と呼ばれる強力な思想改造手法が使われ、冷やかしでのぞいた人ですら熱狂者に変容させる力がある。
カルトの罠に陥らないためには、予備知識を持つことが大切だ。
日本のマスコミが典型的なカルトとして取り上げるのは、地下鉄テロを起こしたオウム真理教や霊感商法で有名な統一協会。南米のガイアナで九〇〇人の集団自殺をした「人民寺院」も米国の有名なカルトだ。
日本では「聖神中央教会」の性的虐待事件がニュースになっているが、幹部もその幇助をしていた事から、普通の宗教団体ではなく「カルト」集団である可能性が高い。
カルトは宗教だけでなく、自己啓発セミナー、ニューエージ、商業カルトまで様々な形態がある。ハワイもカルトと無縁ではない。気をつけよう。
赤十字でファースト・エイド訓練を受けた。読者のあなたもすでに講習済みかもしれない。
ストロークを起こした人や大けがの人に接した時どうしたいいか、一日かけて実習したり講義を受けた。
学んだ中で一番大事だと僕が思うのは、Check,
Call, Careの「3つのC」だ。
この3つのCは、状況をよく確認し、911に通報、救急車が来るまで適切な処置をするという初期動作のことを指す。これが落ち着いて実施できれば、一般人としては合格だ。
頭が猛烈に痛いと話した婦人に、日本で昔、接したことがある。僕は「大変ですね、辛いでしょ」と同情した。たまたま居合わせた看護婦が脳卒中の疑いが強いと病院行きを強く勧め、病院に急行した。その女性は即手術となり一命を取り留めた。
ほんの少しの基礎知識があれば、誰かの命も自分の命も救うことができる。
先日カポレイ中学の十一歳の生徒達にCPR(心肺蘇生法訓練を施したというニュースがあったが、僕はこれに感銘を受けた。祖父や祖母と一緒にいる時間が一番長いのは孫達だ。その孫達に人命救助の基礎知識を与えれば、お年寄りの命を助けられる、と〃誰か〃が考えたのだ。
発起人のその人は、ハワイで千二百人の子供たちにCPR訓練を受けさせるというビジョンを持ち、各方面に働きかけている。実に立派だ。
こうした訓練を受講した人は、たとえ小さな子供であっても911に連絡すべき時は躊躇なく決断できる。これが大事なのだ。
なお、日本赤十字のサイト(www.jrc.or.jp/safety/index.html)には日本語でファースト・エイドやCPRについて説明があるので、関心のある方はご覧下さい。
「例のものはどこじゃ」
「こちらでございます」
「おー、小判はいつ見ても美しいのー」
「商売繁盛も、すべてお代官様のおかげです」
「そーか、そーか、おぬしも筋金入りのワルよのー」
「お褒めの言葉、光栄に存じます」
時代劇に出てくるおなじみの場面だが、現代の日本やハワイでも下手な時代劇が横行している。
拘置所内の逮捕者に自分の携帯電話を貸し与え、外部と通話させた見返りに十万円受け取った看守の話が日本でニュースになった。実にみみっちい賄賂だ。
ハワイでは、バーを取り締まるはずの酒類委員複数が、店のオーナーから金を受け取った。
ホノルル警察の現職警官六人が闘鶏賭博の用心棒になった容疑でFBIは捜査を進めている。(正式逮捕も起訴もない段階なので事実は不明)
ハリス前市長への違法選挙献金逮捕者はぞくぞくと出ているが、請負契約目当てで金を積んだのだろうか。
業者は一旦契約受注できれば大儲けできるから、多少の賄賂は痛くも痒くもない。担当者への賄賂など釣りの餌代みたいなものだ。
一方、賄賂をもらう公務員側は、釣りの餌代であっても、安月給では不可能な贅沢三昧が楽しめる。双方に都合の良い汚職は今後も無くならない。
賄賂とは別の話だが、州裁判所の新施設がカポレイに建設される事が決まった。大手不動産が敷地を特別提供したことで話がまとまったと聞いて、ちょっと腑に落ちない。中立を標榜する裁判所が、大型利益供与を公然と受けても良いものか。当の不動産が利害当事者になった場合、裁判所は公正でいられるのか。
大金が動く政治家の賄賂から、庶民の少額賄賂まで幅があるが、人の心と瞳を曇らす賄賂をきっぱり拒絶する勇気を持ちたい。下手な時代劇をやめて、もっと清廉な社会を築きたい。
小さな町が大きな夢実現に励んでいる。
今年の新年号で「ゴミ・ゼロ宣言」を紹介したが、その日本第一号が四国の上勝町(かみかつ・ちょう)だ。
上勝町は、徳島県の勝浦川沿いに約二十キロ入った田舎町だ。一九五〇年に六千人だった人口が、二〇〇〇年には二千人に落ち込み、六十五歳以上が四四%を占める典型的な過疎の町となった。
若者は都会に出ていく、基幹産業の農業も振るわない、町には働き場もない。
町の指導者達はマイナス思考を止め、今そこにいる人と潜在的可能性を生かす改革に着手した。
町は、果敢にも五つの第三セクター会社を立ち上げた。1温泉施設、2特産品しいたけの研究・製造販売、3木材加工販売、4国土調査・測量会社の発足、5日本料理店用の彩り品を生産販売。
これらは地域の特徴を生かしたもので、高齢者を労働人口として取り組み、利益を順調に伸ばしたため町民経済が見違えるばかりに向上、各地から視察団が後を絶たない。
都会の若者を招き入れて定住させ、若いアイディアを出してもらう政策も軌道に乗った。町が運営しているウェブサイトを見ればその若さとエネルギーは一目瞭然だ。
ゴミ埋め立て用地問題や消却施設の高騰で、小さな町の予算では賄いきれない状況が発生。起死回生の発想転換が「ゴミゼロ宣言」で、ゴミ埋め立て地や消却施設を全く必要としない制度を二〇二〇年までに作ることにした。今では三十四種類のゴミ分別収集を実施、ゴミを資源に変えるため町民が協力している。
高齢者が多い町だが、働きがいのある環境が整い、健康づくり運動も幸いして、寝たきりのお年寄りは町中に二人しかいないという。
過疎だからダメ、小さいからムリという先入観を捨て去る時に何かが始まる。
ホノルルだって同じだ。どこかのマネばかりの政策ではなく、ホノルル独自の発想で地域活性化を進めたい。
「俺だよ、オレ!」
「あら、まあッ、あたしには、〃オレ〃が二人もいるけど、どっちのオレ?」
「……。」(ガチャン)
日本で問題になっている「おれおれ詐欺」の電話が実家の母にかかってきた。
「大丈夫だったかい」と電話で聞くと、
「へっちゃらよ。だって孫の男の子はハワイに住んでいるし、もう一人はまだ小学生だからね、そう簡単に引っかからないわ」。
「おれおれ詐欺」は、「なりすまし詐欺」とも呼ばれ、二〇〇三年日本全国の被害総額は四十三億円に上った。昨年は急増、約四倍以上に増え百八十五億円もだまし取られた。
日本国内の銀行ATMからは大金が簡単に引き出せる。これが「おれおれ詐欺」の集金手段として利用された。東京三菱銀行のATM引き落とし限度額は一日に二〇〇万円、三井住友銀行とUFJ銀行が三〇〇万円、みずほ銀行のICカード対応ATMはなんと五〇〇万円となっている。銀行側も事態を憂慮、限度額を一日五〇万円程度に引き下げる案を検討している。
一人暮らしの高齢女性が「おれおれ詐欺」被害者に最もなりやすい。長年働いてやっと貯めた大事な蓄えを、どこの誰とも知れぬ盗人に振り込んでしまうのだ。世の中には本当に悪党が多すぎる。
「振り込め詐欺」と総称される犯罪では、誰のものとも分からない架空口座が利用される。運転免許証を偽造して口座開設をする者や、自分が作った口座を販売する者までいる。
「おれおれ詐欺」のやり口は、交通事故を起こした、借金を返せない、痴漢をして示談金を求められた、妊娠して出産費用がいる、交際相手に怪我させた、などの理由で犯人が電話口で泣き続け、助けを懇願する。
お年寄りの親切心を踏みにじり、徹底して人の弱みにつけ込む卑怯な犯罪だ。同種の犯罪撲滅を強く願う。
ハワイでアイススケートとは、何とも奇妙だが、やってみると意外としっくり来る。
アロハスタジアムのすぐそばにアイススケート場がある。オアフ島で唯一ここだけだの施設だと思う。娘の友達がそこで誕生祝いをするというので招待された。
新聞の仕事を終えた土曜の午後、僕は娘を迎えにスケート施設に入ったが、沢山の誕生パーティーが開かれていてびっくりした。あちこちのテーブルにピンク色のプレゼントの山が見える。女の子のパーティーが多いのかな。
チケットが余っていると勧められ、十数年ぶりにスケート靴をはいた。リンクの広さは日本のスケート場ほど大きくはない。氷の上はかなりの人口密度で、子供や若者が左周りにぐるぐる滑っている。
氷上に立つ時は、ちょっとひるんだが、「俺は、昔、赤城山の湖で毎年のように滑っていたんだ!」と自分を奮い立たせて、一歩を踏み出した。
グラッ。(まずい。かなり滑る)一瞬で汗が出た。壁につかまり、ソロリと出る。ツルッ。(戻ろうか)。
僕の後ろに女の子が壁伝いに立っていて、早く進んでよ、と目でせき立てる。すまんと僕も目で謝った。
それでようやく壁から手を離して、滑り出した。客観的には「歩いている」としか見えないだろうが、意識としては風を切ってコーナーを曲がっている。
僕は末の娘に感謝している。二十歳過ぎの子供が二人もいるのに、歳の離れたこの子のおかげで、もう一度親である事を楽しめる。この歳で訪れるはずもないアイススケート場で、楽しんで滑っている。
我が家と同じ家族構成の日系人のお母さんが 「そんなに急いで大きくならないで、と末っ子に言っているの」と話してくれたことがある。まったくの同感と僕はうなずいた。
なぜ俳優の渡辺謙は映画「ラストサムライ」で日本語ではなく、英語で話したのか。
これを足掛かりにして、アメリカ的発想を考察してみたい。
僕はラスト・サムライを劇場で二回見た。エンターテイメント映画としては良くできている。
ただ、歴史背景や日本文化など、細部におやッと思う点はたくさんある。ロケ地がニュージーランドのタラナキ村のため、映画の背景にヤシの木がチラリと見えたりするが、まあ、これはご愛敬。
一番違和感を覚えたのは言葉だ。
日本を舞台にした映画なのに、渡辺謙はじめ登場する日本人のほとんどが英語で話し出したので、僕は映画館の大スクリーンの前で思わず絶句した。そして「コラッ、日本人だろ、日本語で話せ」と言いたくなった。
サムライに英語をしゃべらせるとは、まったく呆れ返る。これを〃アメリカ英語帝国主義〃と呼ぶことにする。
日本人がアメリカを舞台にして映画を作れば、アメリカ人は普通に英語を話し、日本人は下手な英語で応対するはずだ。まさか、南北戦争に日本のサムライを送り込み、南軍や北軍の兵士に日本語で会話させたりしない。まして、アメリカ魂を主人公のサムライに凝縮させるという無茶は絶対にしないだろう。
アメリカの合理主義とは、自分にとっての合理主義だ。侍が英語を話してどこが悪い、アメリカ人には理解しやすい、英語は世界標準語だ、他の言語を止めにして世界中を英語にすればいい、なんて言いかねない。
地球温暖化防止を目指した「京都議定書」が完成したが、アメリカは自国産業保護を理由に署名拒否した。これは〃英語を話す侍〃の論理的帰結とも言える。
おごれる平家久しからず。もっと世界に愛され、尊敬される米国になろう。
「動物が寝てばかりでつまらない」
「市立動物園は金食い虫だ、閉鎖しろ」
北海道の旭川市立「旭山動物園」は一九九五年、開園以来最低の来園者二十六万人を記録、閉園の瀬戸際に立たされた。
予算はペンキ代程度しか出ない状況でも、菅野浩園長は理想の動物園作りをテーマに熱い話し合いを職員たちと続け、再生の日を待ち望んでいた。
予算が出ない場合はどうするか。予算がある場合はどんな施設を作ったらいいか。飼育係や職員それぞれが具体的なアイディアを持ち寄り、夢を語り続けた。
新市長当選により動物園政策が激変、思い切った予算割当が可能となり、念願の「もうじゅう館」が九八年に完成した。
金網を来園者の上までせり出させた構造により、獲物を狙うユキヒョウの姿が頭上間近で見られるようになった。
次に、「ペンギン館」が完成。館内の水槽内に人間が通れるトンネルを設置、泳ぐ姿を下から見ることができる。「ペンギンは鳥だったんだ!ペンギンが飛んでる」と歓声が響いた。
日本の動物園で最北端にある旭山動物園は、厳しい寒さと積雪のため冬期は閉園していたが、九九年からは期日限定ながら開園。雪の中でイキイキする白熊や、ペンギンが並んで歩く散歩姿など、大人気となった。
二〇〇三年には、一九六七年開館以来最高の八十二万四千人の人出を記録。どん底から見事に甦った。
動物が快適に過ごせて、個々の動物がもつ運動能力が存分に生かせる環境作りを追求した。その結果、来園者が感動する新しい動物園が出来上がり、リピーターが一気に増えた。
旭山動物園は今も新しい工夫と創意を続ける生きた動物園だ。
この復活物語りは、聞く者の心に大きな勇気を与えてくれる。できるんだ、やれるんだ、やってみよう!
「見てくれ、青い空、緑の山、ハワイだな、最高だよ!」と隣のコースのおじさんが大声で知り合いに話しかけている。
ここは、完成二年にも満たないピカピカの市営プールだ。ジェレミー・ハリス元市長による〃ばらまき行政〃と批判された施設の筆頭格に当たる。
本格競泳用五十メートルプール、階段式観覧席、幼児用プール、温水シャワーを豊富に備えた大型更衣室、プールに隣接して体育館や会議室もある。〃箱物行政〃の堂々たる記念碑だ。
「最高だ」とおじさんが叫んだが、気持ちは良く分かる。何しろ豪華競泳プールに十人も泳いでいないんだから。贅沢感は否が応でも盛り上がる。ちゃんとライフガードもいる。幼児用プールには別の監視員が見張っている。
泳いでいる人が少ないため水中の透明度は抜群、グレートバリアリーフの海かと思わせるほどで五十メートル先のプールの壁まで見える。プールの底がスロープ状になっていて、中央部分がどんなに深いか良く見える。
クロールでゆったりとながして泳ぐと、水中を漂う太陽光線と戯れているようだ。顔を横向けにして空気を吸う瞬間、青い空が見える。顔を水面に戻すと透明な泡に包まれ、最後は透き通った青い世界に引き込まれる。
仰向けになって水面に浮かぶと、見えるのは青い空と白い雲だけ。無重力を体験しながら、体の力が抜けていく。
ふと、日本のプールを思い出す。イモを洗うような大混雑、十メートルも真っ直ぐには泳げず、子供がどこから突っ込んでくるか分からない。市営プールだって結構高い入場料を取る。ハワイでこんなにゆったりして申し訳ないくらいだ。
ばらまき行政だ、箱物行政だ、と今更批判しても何も生まれない。完成した施設はガンガン使いましょう。暑い時は、市営プールでリゾート気分としゃれこみましょう。
飯島夏樹さんを知ってますか。
「ウィンドサーフィンで日本を代表する選手だよ。ワールドカップに八年間も連続出場していたよ」と説明して、波の上のダイナミックなフォームをイメージできるなら、あなたは海の人です。
「知ってる。彼の書いたベストセラー小説『天国で君に逢えたら』を読んだわ。ハワイでの生活をつづった日記『ガンに生かされて』も読んだ。良かった。じーんとして涙出ちゃった。つい最近『神様がくれた涙』(いずれも新潮社)も出版されたはず」と言う人は、読書家ですね。
「フジテレビのドキュメンタリー番組『天国で逢おう〜末期がんウインドサーファーの家族、その愛』を見たから知ってるよ。続編の、『天国で逢おう・追悼編」も見た。ハワイの景色が出てきたし、飯島さんの家族が明るくて、とても印象的だった」という人はテレビ人間です。
「三十歳代の若さで肝細胞ガンになって、二年間に何度も大手術を受けたけど去年六月に余命宣告を受けた人。人生の最後を家族みんなで過ごしたいと大好きなハワイに来た人です」と言う方は、闘病中の方かもしれません。
飯島さん家族がホノルルに着いたのが去年の八月十六日。あれからもう一年が過ぎました。長いようで、あっという間でした。
僕は、インタビューして彼の事を記事にまとめようとしましたが、結局止めました。藍色の作務衣を着て静かに座る姿、そして彼の澄んだ大きな瞳を見た時に心は決まりました。「大切な時間をじゃましちゃいけない」。
今年二月二十八日夜、彼は逝きました。三十八歳という若さです。
僕はちょうど日本にいたので、葬儀に出られませんでした。でも、今ではそれで良かったと思っています。だって、彼は今、〃波〃に乗り、〃風〃と遊んでいるのですから。
数日前は満月でした。窓の明るさで僕は夜中に目を開けました。夏樹さんが書いていた〃満月の夜〃はこれだな、と気づいて眠れない夜が無性にいとおしく感じられました。
「最近目が悪くなったのかしら、星が雲みたいにかすんで見えるわ」と近くに座っていた女性が言った。
キャンプ・ファイヤーが終わり辺りは真っ暗。子ども達はマシュマロを焼き、親たちは芝生に寝ころんで満天の星に感動しながら見とれていた。
星って、きれいだな。本当はこんなに沢山あったんだ。空のてっぺんには星の川が見える。アッ!、目が悪くなったんじゃない。
「あれは天の川だよ。雲みたいに見えるのはミルキーウェイだ」と僕は興奮ぎみに話した。天の川は、太陽系が属する銀河系を内側から見た姿だと思い出した。
近くにいた女の子に「ほら、見えるだろ、天の川だ。七夕の話を知ってるよね。織り姫も彦星もあるよ」と、つい口がすべった。その子は、「どれが織り姫、どれが彦星?」と聞いてきた。(しまった)「うーん、ゴメンね、実はおじさんも、知らないんだ」。「ふーん」。
ハレイヴァから西にしばらく進んだ海沿いにサルベーション・アーミーが管理する「キャンプ・ホメラニ」がある。そこで見上げる星空は、ただ〃凄い〃の一言。同じオアフ島とは思えない。
キャンプ場から帰って、すぐインターネットで調べた。織り姫は琴座のベガ、彦星はわし座のアルタイル。ちょうど天の川を挟むような場所にあった。
夕食後、妻と娘を引き連れて自宅近くの公園に出かけ、一番暗い場所に立った。星座表を頼りに織り姫を探したが、キャンプ場でくっきり見えた天の川は、街の明かりが強すぎて全然見えなかった。
「あった、あれでしょ」妻が指さす。「そうだ、あれだよ。織り姫だ」夏の大三角形と呼ばれる明るい星が三つ。その二つの頂点が織り姫と彦星だ。
キャンプ場で寝ころんだ時これが分かっていたらと悔やまれた。とはいえ、にわか天文ファンの僕らには、充分に満足できる星空のロマンだった。
「例の成功報酬、八百万ドルを頼んだぜ。悪く思うな、あばよ」
西部劇の一シーンじゃない。ワイアン・エアライの管財人を努めたジョシュア・ゴットバウム氏は八月一日、破産法廷に対し八百万ドルの成功報酬を要求して自宅のあるワシントンに帰った。
これは全労働者を愚弄する常識外れのおねだりか、それとも当然すぎる報酬か。
ハワイアン航空では人員削減などの大規模リストラを断行。一般従業員は、背に腹は代えられず、泣く泣く大幅賃金カットを飲んだ。
四百人の機械整備職員も三百八十人のパイロットも一様に大噴火、怒っている。もしゴットバウム氏がホノルルに住んでいたなら放火事件だって起きかねない。
けれども見方を変えれば、弁護士の成功報酬同様、ごく正当な代価という意見もある。そもそも敏腕管財人に依頼した時点から、成功報酬は世の常識だったはず。
ストレスが極度にかかる立場で週五十時間労働を二年間続け、ハワイアン航空を破産状態から立ち直らせた功績を考えてくれ。エンロンやエア・カナダの管財人が要求した額と比べればぐんと少ない。何しろ、会社がつぶれずに復活したことを忘れては困ると同氏は言いたいはずだ。
下町の熊さんや八つぁんならこう言うに違いない。「てやんでぇ、俺達だってよ、ストレスかかる仕事を毎日してらぁ。くやしかったらやってみな、高ストレス低賃金っていう生活をよ。アロハ・ユナイテッド・ウェイの資料を読んだけどよ、ハワイじゃ三家族に一家族が連邦基準で言うところの〃低所得家族〃だっていうじゃねえか。ハワイでまともな暮らしをするには年間四万六千ドルがいるそうだが、それもままならねぇ家族がごまんといるんだ。何とかならねえかよ、えっ」
九月二十一日、ゴットバウム氏の要請に応えて連邦破産法廷で意見陳述が行われる。さて判事の裁定はどうなるだろうか。
エレキギターを買い求めるおじさん達が日本で増えてるらしい。
楽器店内に吊されたエレキギターを、少年のような眼差しで追う白髪混じりの中年男やビール腹のおっさん達がいる。ちょっと奇異に見えるけど、僕には理解できる。
昭和四十年代前後に起きたエレキギター・ブームは当時の日本を席巻した。ただし、エレキギターは高すぎて、普通の中学生はおろか、大人だって簡単には買えなかった。
あの頃は、エレキギターを弾くだけで不良と言われた時代だ。
ベンチャーズが、♪テケテケテケ♪とやると、理屈無しにしびれた。ビートルズが出て来た日には頭を殴られたね。
一クラスの生徒数が五十人を超え、教室や学校施設の建設が追いつかない時代、エレキギターは別世界の楽器として輝いていた。
団塊世代のおじさん達は子育ても一段落、自分にご褒美があってもいいじゃないと思っている。妻の買い物につき合い、時間つぶしにふらっと立ち寄ったデパートの楽器売場でエレキギターの値札を見て立ち止まる。
「ん、買えるじゃん」
ゴルフのクラブにもこだわるおじさん達だから、ちょっと値が張るビンテージ品や有名ギタリストの限定モデルなどにも手が延びる。
昔の仲間に声を掛け、中年バンド再結成などというお楽しみもある。聞くところ、おじさんバンドのコンテストまで日本では開かれているようだ。
ホノルルの善良なる中年男がカピオラニ公園のステージに集合して、おっさんバンド・フェスティバルなんてぶちあげるのも楽しいではありませんか。
中年になってギターを習うのも決して遅くはありません。大音量を出しても大丈夫、そろそろ耳も聞こえにくくなってますからね。「ハイウェイ・スター」のリードパートにも挑戦できますよ。ただし、テンポは二倍減速ぐらいが丁度いいかな。
「釣った魚に餌はやらない」と夫が言えば、「亭主、元気で留守がいい」と妻達はやり返す。悲しいかな、これが中年夫婦の平均的な姿だ。