ますみちゃんは僕にこう言った。
「ひらゆ君、教会に行こうよ」
僕の心臓はドキンと鳴った。当時、小学校4、5年の僕にとって一大事件だった。ピアノが上手で、成績はクラスで上位、長い髪のますみちゃんに言われたこと自体にビックリ、その上、行ったこともない教会にさそわれた。コーヒーに混ぜたミルクみたいに心の中で嬉しさと困惑がぐるぐる回っていた。
「一人じゃなくて、友達と一緒でもいいよ」。
僕はちょっとがったかりした。近くにいた僕の友達も話の輪に加わり、結局「行こうぜ、ヒラメ」と次ぎの日曜に行くことに決まった。僕の小学校時代のあだ名は、ヒラメ。平湯という名前から連想しただけの単純なネーミング。小学校時代の僕は、真面目で、人をいじめるヤツが嫌いで、鉄棒が大好きな少年だった。
初めて足を踏み入れた教会は、ふんわか玉子焼きみたいに、温かくて、優しくて、ちょっと背中がかゆい感じがした。日曜学校の先生たちが、子供の礼拝を導き、聞いたことのない賛美歌とやらを歌った。正確に言えば口をモゴモゴしただけ。正面に黒板みたいなものがあり、その上に「しゅのいのり」と書いた白い布があった。
ふーん、これがお祈りか、ありがたいような感じがするけど、意味は分からないと思った。少数の子供や先生たちが持っていた分厚い本に心が引かれた。あれが聖書か。特別な本にちがいない。読んでみたいと思った。
いじめられて自殺した子供のニュースが最近も話題になった。いたたまれない思いがする。僕の小学校時代にもいじめはあった。
「おい、これは女のスプーンだぞ、これで食え」
「、、、、、」
「食えって言うのが聞こえないのか」
「、、、、、」
学校給食で使うスプーンに飾り模様が刻印されていて、そのほとんどは同じだが、まれに異なった模様のスプーンがあった。クラス男どもがそれを「女のスプーン」と名付け、汚いものでも触るようにわざとその男子生徒に使わせようとした。
彼の目には涙がたまっていた。はっきりノーと意思表示できない性格でひょろっとした体格、行動が遅いせいか、クラスの男子生徒主流派が彼をターゲットにしていじめていた。
ますみちゃんが教会に誘ってくれた頃か、その前後だったか、もう僕の記憶は定かでない。とにかく僕はいじめが大嫌いだった。だから、給食の余興のような馬鹿騒ぎに嫌悪感を覚えていた。
彼を助けていじめっ子と対決したという話なら胸を張って言えるけど、それほど立派な人間ではなかった。別な場面で、彼に話しかけたり、みんながはやし立てる場面で、「もういい加減にしろよ」と言う程度しかできなかった。
中学に入った頃、彼が英語の単語を一生懸命覚えて頑張っている事が分かった。新しい環境で、やり直そうとしていた。いじめっ子たちより背も高くなり、馬鹿にされにくい体格になったのも幸いした。
ローマ2章14節には次のような言葉がある。「自分自身が自分に対する律法なのです」。
神は僕らの心に<良心>という羅針盤を植えつけてくれた。そのおかげで、何が良い事で、何が人の道に反するのか、判別できるようになった。でも、どうしたら正しく生きられるのか、勇気ある人生を送れるのか、当時の僕には良心が痛むだけで出口が見えなかった。ずっと後になり救い主イエス・キリストに出会い、生きる指針が与えられた。あなたの良心は今日、痛いですか。
これが、クリスマスケーキか!
僕は、ごくりとつばを飲み込んだ。
母は宝物を運ぶようにして白い箱をコタツの上に乗せた。ふたを開けると、白いクリームと赤いイチゴのケーキが現れた。僕は思わず、コタツから身を乗り出して興奮した。
日本映画「Always三丁目の夕日」と時代背景が重なるが、昭和30年代当時の日本ではケーキ自体が珍しかった。すきま風がどこからともなくやって来るような家だったが、僕は感激でぼーとしてしまった。あの喜び、今の若い人には分かってもらえないだろうな。当時のケーキは生クリームでなくてバター・クリームを使っていたので、少し余計に食べると気持ちが悪くなったが、そんな事はどうでもよかった。
外は寒い冬の夜空、狭い畳敷きの部屋はコタツでぽかぽか。ケーキを取り囲む小学生の僕と弟と妹は嬉しくてしょうがない。母はローソクにうやうやしく火をともし、僕らの顔を見回して言った、「ほら、歌でもうたったら」。そういわれても、何を歌えばよいのか分からない、「それじゃ、メリー・クリスマス!」と母が掛け声をかけ、僕ら3人は「メリー・クリスマス」と叫んでローソクを消した。今、思い出しても、とても楽しい家族団らんのひと時だった。
不思議なことに、家族の誰ひとりクリスマスの意味など知らないのに、クリスマスは特別なんだという無言の納得ができていた。
いびつな形で紹介されたアメリカの商業クリスマス文化は、日本ではクリスマス・ケーキとプレゼントに特化し、主イエスの誕生という中心的意味はうやむやにされてしまった。それでも、驚くべきことに、クリスマスは特別なんだ、という印象を当時の日本人に与えていた。
そうなんです。クリスマスは特別なのです。下を向いていた人に、上を見上げる元気をくれるほど特別なのです。他人に無関心だった人がプレゼントを贈ろうなどと考える時なのです。
クリスマスを特別にしているのは、神のひとり子が、あなたのために生まれてくださったという奇跡が起きたからです。だから、あなたに「メリー・クリスマス」のお祝いの言葉を贈ります。誰が愛してくれなくても、主イエス・キリストはあなたを愛してます。あなたのために、あなたを救うため、キリストは生まれてくれたのです。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2章11節)
あけましておめでとうございます。どんな気持ちで新年をむかえましたか。
94歳でなお現役のスーパー医師といえば、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生です。数年前、教会の招きでハワイに来られ、1時間以上も立ったまま情熱を込めて講演をされ、集まった大勢の人々を驚かせました。ハワイ滞在も講演だけでとんぼ返り。その過密スケジュールに僕らは二重にビックリしました。
日野原先生の多数の著書から今回は、『生きるのが楽しくなる15の習慣』(講談社)を紹介します。
そもそも<生活習慣病>という言葉を作ったのは日野原先生でした。人を方向付けるのが習慣であり、場合によっては病気を引き寄せてしまいます。以下は日野原先生が取り上げた「生きるのが楽しくなる」リストです。
1 愛することを心の習慣にする
2 「良くなろう」と思う心を持つ
3 新しいことにチャレンジする
4 集中力を鍛える
5 目標となる人に学ぶ
6 人の気持ちを感じる
7 出会いを大切にする
8 腹八分目より少なく食べる
9 食事に神経質になりすぎない
10 なるべく歩く
11 大勢でスポーツを楽しむ
12 楽しみを見いだす
13 ストレスを調節する
14 責任を自分のなかに求める
15 やみくもに習慣にとらわれない
クリスチャンの日野原先生は一般の人に分かりやすい言葉で説明し、毎日の姿勢こそが幸福の源泉だと指摘しました。
一番大切な事は何かと問われた主イエスは、「あなたの神である主を愛せよ」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と答えました(マルコ12:30~31)。これこそ、僕らの人生を真に幸せにする最高の習慣ですね。
深夜の自動販売機。硬貨を入れるとガタンと大きな音がした。ワンカップ大関が落ちた音だ。高校3年の僕は罪意識を払拭しながら勇ましい高揚感に浸っていた。自分の部屋に戻って飲んでみたが、うまくもなんともない。タバコをふかしても不快なだけで、ニヒルな気分が煙に混じって部屋にたちこめた。

小学校時代、同級生の女の子に教会に誘われたとこの欄で書いた。何回か日曜学校に行ったが、「おい!教会は男の行く所じゃないぞ」と友達に言われ、なぜか納得して行くのをやめた。それ以来キリスト教との接触は無かった。高校は私立のミッションスクールで偏差値の高い学校だった。キリスト教の授業はあったが関心は引かなかった。
最初の実力テストで500人中7位に入った。なんだ、この程度かと気持ちが冷え、勉強するのを止めた。中学時代の受験勉強疲れとストレスが一気にほぐれ、一足早い「五月病」にみまわれた。振り子は大きく反対に振れ、スポーツと読書だけの高校生活になった。
フェンシング部に入って、夜遅くまで練習した。運動部の1年生は奴隷のようにこき使われ、基礎体力作りと称したシゴキはかなりきつかった。二十名近くいた1年生部員は2年になると3、4人しか残らなかった。3年になると僕はキャプテンになった。県個人総合優勝とはいっても、参加2校だから誇れるものじゃない。いくらスポーツに熱中しても空しかった。
そのせいで、電車の中でも家でも本をむさぼり読んだ。小学校時代は伝記の虫、中学時代はシェークスピアや武者小路実篤。高校に入って芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫をはじめとして乱読が加速。高校3年のころはサルトルやカミュを読んでいた。実存的な価値観の影響を受け、かなり厭世的な気分に浸っていた。その頃だ、自動販売機で酒を買ったりタバコを燻らせたのは。当時、学校の成績は後ろから数える方が早いほど落ちていた。職員室で話題になっていたようだ。
同じクラスに関根という男がいて、ある日「教会に行かないか」と言ってくれた。僕の陰に気づいてくれたらしい。暗闇に一筋の光が差し込んだ気がした。土曜日午後に開かれていた高校生会に一緒に参加したが、圧倒的な光と喜びのシャワーを経験した。まるで別世界だった。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネによる福音書1章4~5節)
<なんだ普通の家じゃないか>教会堂の前に立った僕は戸惑いを覚えた。確かに看板にはキリスト教会と書いてあるし壁には十字架が付いていたが、僕のイメージとはかけ離れていた。

高校代の同級生で体操部所属の関根とは、学校の行き帰りによく一緒になった。僕の事を心にかけて祈ってくれた。何度断っても粘り強く誘ってくれて、その日ついに、彼の通う教会の高校生会に出席することになった。
関根と一緒に駅を下り、公園の角を右に折れ交差点を渡った。「これが僕の通っている教会だよ」と彼が指差した場所には平屋の民家しかなかった。
外観はさえない教会堂だが、中に入ると笑顔、笑顔のシャワーだった。出迎えてくれた高校生仲間が、まぶしいくらい輝いていた。ワンカップ大関やサルトルの世界とは、まったくの別世界。土曜日で学校帰りのため参加者約20人はみんな学生服姿。いくつかのグループに分かれディスカッションをした。みんな真剣に話し合い、良く笑った。心が純な人ばかり。楽しかった。実に楽しかった。僕の高校生活や、部活のスポーツでは経験できなかった何かがそこにあった。男子校に通う僕にとって、女子高生が多かった事も楽しい理由だが、決してそれだけではなかった。
細身で中年の先生が聖書の話をしてくれた。内容はまったく記憶にないが、その時の高校生の顔は良く覚えている。メッセージが終わった後、別室に移され、新参者の僕はその特別講師の先生と一対一にさせられた。<まいったな>「何か、質問がありますか」と聞かれたが、質問すら思い浮かばない。冷や汗が出て、時間ばかりが長く感じられた。
帰り際、高校生会を指導していた大学生クリスチャンに、「明日の礼拝にも来ます」と僕は挨拶していた。鬱屈した心こそ真実で、笑顔や明るさは偽物だとうそぶいていた僕が、帰りの電車では別人の心境だった。別に主イエスを信じたわけでもないのに、何かが心の中で芽を出していた。
イエスさまを愛す人たちがいる所は、温かい何かを周囲に発している。僕はその何かに魅力を感じた。初代教会もそうだった。「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人を仲間に加えてくださった」(使徒2章46~47節)
「ちょっと、平湯君、話をしてもいいかい」と牧師に呼ばれた。なぜか、高校生仲間はすっと席を立って、どこかにいなくなった。<僕を一人にしないでくれ~>
教会の高校生会に初めて出席した翌日、僕は日曜礼拝にも出席した。教会の仲間に会うのが楽しくてしょうがなかった。でも礼拝はちょっと窮屈。賛美歌の音程は高いし、メッセージも良く分からない、その上献金があってびっくりした。貧乏高校生としては、電車賃を出して遠くまで来ているので、献金はきつかった。高校生の仲間と教会で昼食を食べ、楽しくおしゃべりしていたが牧師先生に突然呼ばれた。「ちょっと、平湯君、いいかな」
その牧師は鈴木先生といって、今なお尊敬する素晴らしい先生だ。僕の身長を四分の三ぐらいにぎゅっと上から圧縮し、横幅を四倍くらいに広げた体格だ。丸顔で熱血漢、野球のグローブみたいな手で握手され、窓際に二人で差し向かいに座らされた。「素晴らしい人生を手に入れるための『4つの法則』を知っているかい」と聞かれたが、そんなの知ってるはずがない。「いいえ」と答えた。それから何と二時間、先生は離してくれなかった。
第一に、あなたを愛してる神がおられるんだ。第二に、僕ら人間には罪がある。第三に、その罪を救うためにイエス・キリストが十字架で死んでくれた。第四に、平湯君がイエスさまを救い主として信じるなら、罪から救われ永遠の命をもらえる。どうだい、今、信じないか。
僕は「福音」というものについて説明を受けたのだ。頭で理解はできたが、断った。唾を飛ばして、色んな実例を話して熱心に教えてくれた鈴木先生には悪いが、信じますとは言えなかった。心が完熟トマトになるには少し早すぎた。
この「窓際2時間事件」以来、僕は福音について考え始めた。神さまっているのかな。本当に神は愛なのかな。僕は案外まじめな方だけど(深夜のワンカップ大関とタバコはもう忘れている)、僕にも罪があるのかな。イエス・キリストは本当にいるのかな。自分としては信じられないけど、主イエスを信じてる高校生仲間にはマジで心引かれるものがあった。
イエスさまを信じないでクリスチャンになる方法を無意識のうちに探していたのかもしれない。もちろん、そんな裏道など存在しない。主イエスはこういわれた。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20章27節)
うだるように暑い七月だった。教会の高校生会の仲間十数人で日曜午後、電車を乗り継いで旧日大講堂までやって来た。「すごい人数。一階席は満員だ」「それじゃ、二階席に回ろう」リーダーの大学生に従い階段を上った。人の高さほどの氷柱があちこちに冷房代わりに置いてある。すでに集会は始まっていた。僕らは階段席に座り、講壇を見下ろした。
僕が教会に通い始めてすぐ、キリスト教の大きな集会が東京で開かれた。アメリカの女子フィギュアスケート選手がクリスチャンとしてスピーチした。その後、伝道者の有賀喜一先生が力強いメッセージを語り始めた。
内容は、例の「窓際二時間事件」の時と同じだった。愛なる神がおられる。僕には罪がある。その罪を赦すために、神の子イエス・キリストが十字架にかかり死んでくれた。イエスさまを信じる人は救われる。何百人も会場にいたのに、僕一人に語りかけてくるような迫力があった。
「あなたには罪がある」と有賀先生は鋭く僕の心に切り込んできた。そのとたん、見たくない自分の姿を凝視していた。今までは万年学級委員長で、真面目で、いじめられてる仲間を守るような人間だった。でも、心は違う。人を憎んできた。悪いことをする奴らをうらやんでいた。汚らわしい考えがある。本当は醜い人間で、自己中心の塊だ。家でも、母親につらく当たり、毎朝起こしに来てくれる六歳下の妹を泣かせてばかりだ。僕は、言われるとおりの罪人だ。どうしたらいいのか。本気でそう思った。
有賀先生は、「イエス・キリストがあなたを罪から救ってくださいます。今日イエスさまを信じる人は前に出てきてください」と招き、「いさおなき我を」の賛美歌を歌い始めた。僕の心はグラグラするほど揺さぶられた。「二階におられる方も待っています。どうぞ、下りて来てください」と先生は言われた。
月曜日の朝、妹が階段を上って来た。<お兄ちゃんにまた叱られるかな>六歳下の妹は僕の部屋に入って、毎朝の儀式をした。「朝だよ、お兄ちゃん。起きないと遅刻するよ」。そして、兄の悪態に身構えた。けれども僕はすっと起き上がり、「ありがとう。もう起きたよ」とさわやかに言った。妹は肩透しをくらって目を丸くした。告白するけど、僕は毎朝妹を泣かせるひどい兄貴だった。
前日の日曜日、僕は主イエスを救い主として信じ受け入れた。月曜の朝も喜びは残っていた。努力して自分を変えたのではなく、心の中で何かが始まっていた。高校三年当時の僕は、乱読していた小説の影響を強く受け、人生は不条理、勉強は無意味、希望なんてありはしない、と本気で思っていた。だから朝が来るのが嫌だった。そんな僕が、主イエスを信じただけで、心の方向が百八十度変化していた。「気持ちのいい朝だ、よーし」なんて柄にもなく感じていた。
それ以降、僕は土曜日の高校生会と日曜礼拝にかかさず出席するようになった。仲間たちは僕の決心を心から喜び、交換ノートの仲間に入れてくれた。今ならインターネットのマイスペースというところだけど、手書きノートの味わいは捨てがたい。「ディボーション・ノート」と表紙にタイトルを書き、それぞれが一冊を家に持ち帰る。登校前や夜に聖書を読み、聖書箇所、教えられた事、心に残った聖句、祈りの課題など書き入れ、日曜ごとに誰かとノートを交換した。
ノートを開くと、若い感動で字が躍っていた。答えられた祈りの感謝、救われてほしい友達の名前、所々に祈りながらこぼれた涙の跡が残っていた。ノートは僕らの宝物になった。

教会で仲間と再会するたびに聖書を開き、「こんな凄い聖句があったよ」と競争するように分かち合った。おかげで、僕らの聖書は赤線だらけになり、真っ赤になったページには青線まで引いた。むさぼるように聖書をみんなで読んだ。何かあるとすぐにみんなで祈った。仲間の苦しみは自分の苦しみだった。仲間の友人が教会に来ると、喜んで迎えた。いつのまにか、高校生会の仲間はどんどん増えていった。大学生の良い指導者に恵まれ、純粋で温かい高校生仲間に囲まれ、僕の信仰のスタートはとても充実したものになった。「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうか毎日聖書を調べた」(使徒17:11)
「平湯君、先週は毎日聖書を読めたかい」
「うーん、(>_<)、2勝5敗ってとこかな」
「ちょっと寂しいな。今週は毎朝読めるように頑張ろうな」
「うん…….」(自信なさそう)
高校3年の僕は、涙、涙で劇的にイエスさまを信じ、信仰熱心な仲間に囲まれていました。だから、僕の信仰生活は順調そのものだと読者のあなたは思い込んでいますね。残念でした。本当はジェットコースターのような信仰生活だったのです。山あり、谷あり、さらに谷あり、崖あり、その上脱線あり、という状態でした。

教会の高校生会には大学生スタッフがいて、信仰の良き模範となり、相談相手またコーチとなってくれました。だから、上記のような会話が頻繁に行われていました。朝食前に聖書を読む生活スタイルは、今の僕にとっては、呼吸をするくらい自然です。とはいえ、17歳の僕にはきつい訓練でした。
教会の高校生クリスチャンの存在も、時にはまぶしすぎると感じることがありました。彼らは、熱心で、純粋で、本気で願いを神さまにぶつけていました。それで教会では以下のような会話が頻繁に交わされていました。
「聞いて、聞いて、祈りがかなえられたの。本当に主は生きてるのね。感謝!」。「祈っていた友達が、明日教会に来てくれるってさ。みんな、会ったらよろしくね」。僕は、そういう種類の話を聞くと、<いいな~、祈りが答えられたのか。僕は祈りが答えられたという経験がないし>と落胆、暗い陰が心をよぎりました。突き詰めて考えると、神が祈りに答えてくれると信じていない自分がいました。主イエスの復活も本当にあったのか、疑問が残っていました。
聖書の中に登場するトマスという人は僕を慰めてくれました。十二弟子のひとりなのに、主イエスの復活が信じられない人物です。トマスが席をはずした時に、復活された主イエスが弟子たちの前に立たれました。部屋に戻った彼は、歓喜の渦の中にいた他の弟子たちに完全に取り残されました。だからトマスは十字架の釘跡に手を突っ込んでみなければ決して信じないと言ってしまったのです。トマスは、誰よりも復活を信じたかった、そして弟子たちもトマスを見捨てなかった。
僕は、トマスのように温かい仲間に囲まれていたので、徐々に信仰の確信を身につけ、素直な気持ちで神に願えるようになりました。あなただって、大丈夫。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:29)
ちょっと眠い。高校の正門前に僕と関根それから仲間数人が朝早く集まった。円陣を組んでこう祈った、「神さま、今からこのパンフレットを配ります。学校の仲間がこれを読んで、イエスさまを信じることができるようにしてください、アーメン」。
「おい、平湯、何してんだよ」と小ばかにされたり、「へー、キリスト教ね」と生徒の反応はあまり良くない。あっ、嫌な先生だ。<ひるむな>「おはようございます。これ、読んでください」。先生はキッと僕らをにらみつけ、ひったくるようにパンフレットを取り上げて意地悪そうな目で点検していた。
僕はイエスさまを信じて人生が変わった。生きる希望が出てきたし、毎朝起きるのが嫌じゃなくなった。誰か人にも伝えたいと思う。だけど、ちゅっと勇気が足りない。恥ずかしい。教会の高校生会のスタッフが何度も僕らを励ましてくれた。それで校門前でキリスト教紹介のパンフレットを配ることになった。初めての時は、ドキドキしたけど、祈って配り始めると心が弾んできた。
配布を終え、生徒がそこいらに捨てたチラシを拾いながら校舎に入った。屑篭に捨てられた紙を見て、無性に悲しかった。
僕は仲間と祈るうちに段々勢いを得て、伝道できるようになった。体育祭で早々と試合に負けた学生に、「4つの法則」を知ってるかいと話しかけイエスさまのことを伝えた。
クリスチャン仲間と話し合い、秋の文化祭で展示をすることになった。教室半分が僕らの展示場所。壁と黒板に模造紙を張り、聖書の言葉を大きく書いた。当日、入り口から入って来る人に僕らの一人が付き添い、神の愛、人の罪、主イエスの十字架を説明して、信じませんかと勧めた。教会のスタッフに講師になってもらい、文化祭期間中に科学階段教室で伝道会も開いた。僕らの学校は男子校だけど、文化祭には一般人も女子生徒も来てくれる。そんな女子高生の一人が階段教室に来て、これをきっかけに僕らの教会につながった。凄いことだと思う。
ハラハラ、どきどきのチラシ配布や文化祭・体育祭伝道だった。少々乱暴に僕の背中を押してチラシ配布に誘ってくれた高校生仲間や、情熱を込めて伝道の必要を教えてくれたスタッフや牧師先生のおかげで、伝道とはどんなものかを体で覚えられた。イエスさまを伝えたいなら、このドキドキ、ハラハラの経験を通らないといけない。そうすると、神に頼るということが分かってくるし、自分の信仰もハッキリしてくる。「私は福音を恥と思いません」(ローマ1:16)
「平湯、最近どうしたんだ。成績が急に落ちているぞ」
「……….」
「このままでは、大学に自動的に入るのは難しいな」
「はい………」
先生にお説教されなくても、自分の成績は誰よりも分かってる。高校入学当初は学年上位の成績を取り、こんな程度の学校だったのかと学習意欲が一気に萎え、フェンシング部に入ってスポーツに逃避していた。実力テストなんだから、余分な勉強はしないで受けるのが当たり前と自分を納得させ、中間・期末テスト前に一切勉強しなかった。当然、成績はフリー・フォールのように落下、3年生になると教科によっては下から数えたほうが早い点数になった。
そんな時期に僕はクリスチャンになり、心晴れ晴れ、毎日が楽しくなった。しかし、現実は厳しい。学業成績は如何ともしがたかった。そんな時、例の関根が僕の悩みを察して「おい、夏休みは俺の家で勉強しないか」と言って来た。渡りに船と喜んで出かけた。関根の家は当時まだ珍しいエアコン完備の大きな家で、暑さ対策はバッチリ。関根は英語が得意、僕は数学が得意。お互いの得意科目をそれぞれが教えるという計画になった。
僕と関根はテーブル越しに対面し、畳に座った。「最初に聖書を読んでから始めよう」。なるほど、勉強も神を見上げながらすればいいのか。信仰は信仰、勉強は自分の努力と二元論的にするからいけないんだ。聖書を読み合い、イエスさまってすごいなとひとしきり語り合った。「賛美もしようぜ」と関根は部屋からギターを持ってきた。<いいね、いいね>『友よ歌おう』の歌集が出始めの時期で新鮮だった。大きな声で賛美し、それから勉強に取り掛かった。
こんなふうに、僕は関根から色々な事を教わった。イエスさまを信じることは、決して心の内部だけで終わらず、全人格・全生活に及ぶ根本的な変化であることを体験的に知った。
英語が苦手で僕が放り出そうとすると、関根が「ガンバ!大丈夫だよ、ほら諦めないで」と何回も励ましてくれた。いいヤツなんだ。こんなふうにして、成績は徐々に回復、大学への推薦も無事もらえることになった。
以下の聖句は勉強中に関根が開いてくれた聖書の箇所。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすれば、きっと与えられます。」(ヤコブの手紙1章5節)
それは小雨降る7月のことでした。約束の場所、橋のたもとで僕は待っていました。鮮やかな赤い傘をさした彼女が現れ、「待った。ごめんなさい」と少し息を弾ませて言った。「ううん、全然。少し歩こうか」。僕らは別々に傘をさし、善福寺川を右手に見ながら歩き出した。左手の公園に雨宿りできる場所を見つけた僕らは、同じ方向を向いてコンクリートのベンチに腰かけた。
僕は彼女を見つめる勇気がなく、明るくなってきた雨雲に目をやりながら、序章も、前触れもなく、こう話した。「これからの人生、僕と一緒に歩いてくれませんか。」僕の耳から雨音が消え去った。

数秒間の沈黙の後、彼女は「びっくりしました。でも、しばらく時間をください。後でご返事します。」と応えた。
彼女の驚きの理由は、突然のプロポーズを受けた事だけではなかった。後で聞いた話によると、一途に恋の成就を願っていた彼女は、祈りの中で示され、一切を主の御手にお任せしようと断腸の思いでこう祈ったという。「主よ、もうこれから私からのアプローチは一切止めます。もし、主の御心でしたら、彼から言葉をかけてくれますように。握り締めていた手を放します。」
そう祈って数日後、僕が急に彼女に連絡を取ったのだった。彼女は、僕への想いを主にささげた後だったので、さっぱりとしていた。何か別の相談事でもあるのだろうと約束の場所に現れたが、こういう展開になって心底驚いたという。
彼女、つまり私の家内、洋子は、自室に帰り心を沈め、主に祈り、手紙を書き始めた。あなたの申し出を主の導きと確信し、感謝してお受けします。そして、今までの経緯を説明する長い手紙を書き綴った。
これからしばらくは高校時代の僕の話から一気に飛んで、結婚前後から、家族の生活などを書きたいと思う。神を信じて生きる毎日に際立った外見上の差異はないが、神の恵みをあちこちで発見できる実に幸いな生き方だ。
のろけ話など聞きたくないと言われるのを覚悟で今回は書いた。洋子と結婚できた事は人生最大の祝福だと大声で言える。こんな素敵な人はいない。僕は世界で一番の幸せ者だと確信している。あなたの結婚も、そうなってほしい。これは僕の真実の願いだ。
「ふたりなら、立ち向かえる。」(伝道者の書4章12節)
「お父さん、ちょっとそれ、おかしいよ」と娘たちが突っ込んできた。「だって、そうでしょ。お父さんはお母さんとデートしたこともないのに、いきなりプロポーズしたんだから」確かにその通り。順を追って説明しないと、我が家の娘たちも納得しないだろう。
私と妻は神学校で出会った。東京の杉並区、浜田山にあった小さな学校で、一学年15人程度しか生徒はいない。女子学生は各学年に2人程度だった。
学年ごとの祈祷会も開かれ、各自が抱えている悩みや課題は手に取るように分かった。もちろん試験の成績もだいたい分かった。そういう狭い空間で2年間を過ごしてきたので、家族のように親しくなっていた。それで、お互いを知るためにデートをしてから、なんて考えなかった。ところが、私の考えは甘かった。
プロポーズが受け入れられ、デートが始まった。映画館に一緒に入り、私は映画を堪能した。「どうだった」と期待して尋ねると、彼女は不満そうな顔で何も言わなかった。『スターウォーズ、帝国の逆襲』を選んだのがいけなかったようだ。なにしろヨーダと暗い森ばかりが目立ち戦うシーンも多く、彼女が望んでいたロマンチックな雰囲気が徹底的に欠落していた。しまった、と気づいても後の祭りだった。
汚名挽回を心に誓い高雄山に登った。アウトドアなら万人向きで問題は出ないと踏んだ。ところが、途中の道は見晴らしが悪く、その上、道に迷ってしまった。「帰ろうか」、洋子の疲れを心配して私の方から提案した。「ここまで来たのに帰るの」と挑戦的な目が私を射抜いた。へー、そういう人だったのか。見かけと随分違うな。
こんなことがずっと続いた。やはり、娘たちの意見が正論だ。普段のデートは、神学校のそばの喫茶店で落ち合った。その後は、二人で歩いた。「歩く」、これが、僕らのデートの基本形だった。お金がないせいで、ひたすら歩いた。何時間でも話した。そして、今も、夕食後に二人で歩いている。
本当は二人でなくて、3人なのだ。主イエスさまがいつも一緒にいてくれたから、今も手をつないでいられる。「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」(ルカ24:15)
当時私は25歳。サラリーマンをしていれば、フランス料理や美術館、ちょっと海でも見に行こう、としゃれたデートもできたはず。そこは悲しい神(貧)学生、財布を逆さにしても何も出てこない。
そんなこんなで、今の家内、洋子とデートするようになったが、貧しい僕らには喫茶店に入ることすら贅沢だった。それで、二人のデートはひたすら歩くというパターンに固定化した。
ある日のこと、天気が良いので井の頭公園に行くことにした。駅から公園目指して坂道を下りると、キャンピングカーのような店構えのクレープ屋が左側にあった。日本では出始めの頃で、クレープ自体が物珍しく、僕は彼女に目くばせをして、食べようと誘い、洋子はニッコリして顔で賛同を表した。売店に近づいて立ったままメニューを眺めたが、冷や汗が出てきた。洋子は僕の心境を察して、「いいよ。別な物を食べよう」と助け舟を出してくれた。
ほとんどが小麦粉のくせに高すぎるよ、と私はプンプン怒りながら道を下った。公園の中心には入り組んだ形の池がある。池の周囲は東京にしては珍しいほどの緑に覆われている。僕らと同年齢のカップルが楽しそうにボートに乗っていたが、最初からあきらめていた。ほんとに貧乏だった、あの頃は。
池の傍を歩くと小さな売店が目に入った。僕らが買える物を探してみると、一つあった。森永の『マンナ』。赤い小箱に入っている幼児向けの菓子だ。なんだか、オー・ヘンリー著『賢者の贈り物』にも匹敵するような、貧乏物語だ。

一つの箱を二人で分けて食べた。うまかった。口の中でとろける懐かしい味。見詰め合って、笑った。幼児用の菓子を食べているこっけいさを笑った。「おいしいね」としきりに言い合った。私の目と鼻の奥で、つーんとした感覚が一瞬走ったが、押し殺した。<大切な彼女に、これしか出してあげられない。俺っていったい何なんだ>
でも私は、本当に大切なことに気が付いた。何を食べるかが問題ではないと分かった。誰と食べるかなんだ。心通う人と食べることは、それだけで幸せなんだと思った。聖書にこんな言葉がある。「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17章1節)次のような言葉もある。「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」(箴言15:17)
「女の人は、まず指輪を見るのよ」と言われて、私はびっくり仰天したことがある。私に限って言えば、相手が男であろうが女であろうが、指輪など生まれてこのかた一度も注目したことがない。しょせん石じゃないか。
婚約は翌年3月ごろ、神学校卒業後すぐということに二人で決めた。日本では婚約式を行う教会が多い。二人が婚約中であることを教会関係者に知らせ、結婚式準備が円滑に行えるようにとの配慮がある。世間では結納金として給料何ヶ月分などと相場があり、婚約指輪も贈るらしい。
「婚約式で、プレゼントを交換するけど、何がいい」と私が聞いた。 「………」、洋子は黙っている。 「何でもいいよ」(一応言っただけ)「指輪がいいわ」(何!)
婚約指輪は生まれた月にちなんだ誕生石ということになっているらしい。調べてみると、トパーズだ。はて、トパーズとはどんな石?いくらするの。神学生の立場で収入はなく、その上勉強が厳しく、教会での奉仕も超過密だったが、スケジュールを都合し近くの塾で教えて貯金することにした。

その日はジュエリー店に二人で出かけた。入った瞬間、帰りたくなった。考えてみれば宝石屋など生まれて初の経験だった。「どんなものをお探しですか」、と笑顔の店員に聞かれ、「はあ、あの、婚約指輪です」と答えると、トパーズが並ぶショーケースに連れていかれた。「ご予算は」と聞かれた。「安めのでいいんです」。値札を目で確認した私の体内では強烈な発汗作用が起きていた。「もう少し安いのがいいんです」と私が言うと、店員は徐々に右にずれていく。「もうちょっと」と私が言えば、さらに右にずれた。最後は、店員の指差す場所が崖っぷちまで来たとき、安堵感がやってきた。<買える>。
名古屋にある洋子の母教会で婚約式を行い、婚約指輪をプレゼントした。嬉しそうだった。いつまでも、指輪を手でなでていた。洋子は、その教会で伝道師として働くため実家に残った。私も埼玉に ある教会に住み込んで牧師インターン研修の予定だった。6ヶ月間会えない。洋子との別れ際、「この指輪をあなただと思って過ごすから」と目に涙をためて言われたとき、私ははじめて指輪の意味と価値が分かった。
主イエスは、弟子たちと別れて天に昇る時にこう言われた。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)私たちは主イエスと物理的には離れているが、間違いなく主イエスは私たちと一緒にいてくださる。だから生きていける。だから勇気を失わない。だから一人じゃない。
「はい手紙ですよ」その牧師夫人はニヤニヤしながら手紙を渡してくれた。「今日は、2通もあるわ。私はまるで郵便屋さんね。何が書いてあるの」。
「いや、それは、ちょっと」顔が赤くなってしまった。中身は正真正銘のラブレターなのだ。
神学校卒業後、私は埼玉の教会でインターンを始めた。私が寝泊りしたのは教会内の和室で、日曜日には教会学校の分級室になる場所だ。洗濯はコインランドリー、風呂は銭湯、教会の台所で料理して食べた。24時間教会に詰めている生活なので緊張した。
洋子は名古屋、私は埼玉、必然的に遠距離恋愛になった。半年後の結婚式を目指し具体的な準備も始まった。当時はEメールはなかったし、電話代も高くておいそれと使えない。公衆電話を使うと、硬貨がチャリン、チャリンと落ちていく。音が気になって、ゆっくり話もできない。
安心して連絡できるのは手紙だけだった。手紙は、心を伝えるのに最上の手段だと思う。筆圧や字の大きさで、元気か、沈んでいるか、一目瞭然。何度も読み返せるのがいい。
洋子は、ほとんど毎日手紙を書いてくれた。それで、月曜日などは2通とか3通まとめて届いた。インターン先の牧師夫人が、ニヤニヤするのはそんなときだ。
ここで真実を告白しなければならない。私が返事を出したのは4通か5通に1回程度だった。<この瞬間、全世界の女性すべてを敵にした気がする>きちんと返事を出さない私に、洋子のイライラが募るのは当然だ。手紙のすれ違いをつくろうために電話しても、長い沈黙が続くばかり。当時のことを、今振り返って反省している。

神から僕らに発送された肉筆の手紙が聖書だといっても過言でない。神は愛情を込めて書いて下さった。でも、人は封筒を開けない。開けても、さらっと読み流す人が多い。それでも、神はあきらめない。砂浜に「愛している」と書くと波がその字を消し去るが、何度かき消されても神は、「愛しているよ」、「あなたの罪は十字架でゆるされた」と何千回でも、何万回でも書くお方だ。あなたの手紙読みました、あなたの愛を受け取りました、ありがとう、と書いてあなたの返事を神に送ろう。「主は遠くから私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。….』(エレミヤ31:3)
さあ、結婚式は10月だ。招待状も送付済みで、出席者からの返信ハガキも多数届いた。親戚への連絡もスピーチの依頼も終わった。結婚式前の花婿というのは、まるでコーヒーにミルクを入れた瞬間のようで、嬉しい気持ちと早く終わってほしい気持ちがごちゃまぜだ。
それに比べ花嫁は喜び一杯、一生に一度の晴れ舞台に臨むシンデレラのような心境だと私は勝手に想像していた。あの日が来るまでは。
結婚式を3日後に控えたその日、私と洋子は車で買い物をして忙しかった。車中での会話がいつのまにか言い争いになり、最後に洋子がこう言った。
「結婚、やめようと思うの」
「…………(今、なんて言った?)」
衝撃があまりに強かったので、私は赤信号を無視して交差点を突っ切ってしまった。
「色々考えたけど、私たち結婚しないほうがいいみたい」
私はステアリングを持つ手に力を込め、語気を荒げて返事をした。
「ちょっと待ってくれ。どういうことだ。結婚式は3日後だぞ」
「あなたは気がついていないけど、私たちは分かり合っていないと思うの」
公園を見つけ、駐車場でエンジンを切り、私たちはかなりの長時間話し合った。これだから女は困ると最初私は怒っていた。だが、実際に顔を合わせずに6ヶ月が過ぎていて、行き違いが起きるのはむしろ必然だった。私の筆不精も洋子の心に不信を抱かせたのかもしれない。色々話し合ううちに、私が相談もせずに決めたりした事など反省点も見えてきた。感謝なことに、結婚式は取りやめにはならなかった。
ヘブル13章8節に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」と書いてある。大きな安心感を与えてくれる聖書の言葉だ。私たちが主イエスを疑っても、主イエスの側は微動だにしない。不安になって僕らが手を離そうとしても、主イエスは決して放さない。主イエスは、そのようなお方だ。
「紅茶、サンドイッチ、パウンドケーキひと切れ、そしてブドウひとふさ、これでいいんですね」
「はい」
「ウエディング・ケーキがなくていいのですか」
「予算がないので、、、、なくて構いません」
私は、教会の婦人会長と事前に披露宴の打ち合わせをした。私は当時25歳。若く常識もなく、貯金もなかった。結婚式ができる場所さえあればそれで良いと思ったが、後で思い出すとと赤面するような事ばかりだ。
結婚式には会堂に入りきれないほどの人々が来てくれたので、秋晴れの天候を主に感謝した。主任牧師は式の中で、福音を語る好機とばかりに1時間近くの伝道メッセージをされた。凄かった。
緊張して声を上ずらせながら私は「洋子を愛します」と誓約をし、洋子は落ち着いて神の前で誓った。約束の印である指輪の交換をした後、「二人は神の前で今、夫婦となりました」という司式者の宣言を厳かな気持ちで聞いた。これからはもう互いに「さよなら」と言う必要がないんだ。
披露宴は、一度全員に会堂から出てもらい、テーブルと椅子をセットした後、入ってもらった。外で、友人たちと歓談したとき、「見たことがないような、いい顔してるぞ」と言われて恥ずかしかった。
披露宴で白いウエディングケーキが突然出てきたときには、涙をこらえるのに必死だった。みんなに愛されている。嬉しくて、嬉しくて、、、、。
引き出物と言えるものは何もなかったが、ミレーの『晩鐘』の複製画を持ち帰って頂いた。貧しい二人が農作業を終え神に祈る姿、二人で助け合い生活を築く姿、どんな時にも二人の間に神がおられる姿、この絵に夫婦の理想像を見出し、結婚の記念にさせてもらった。
結婚26年がたつ今、私たち夫婦は貧しいけれど愛し合い、主の助けで困難を乗り越え、祈り合う二人になっている。主に感謝と賛美を心からささげます。「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つよりの糸は簡単には切れない」(伝道者の書4:12)
日曜の夕方に結婚式は終了、翌月曜日に私たちはレンタカーを借りてハネムーンに出発した。同じ週の土曜日、家内の親戚や友人を中心に二度目の披露宴を名古屋で行う予定だった。それで新婚旅行は埼玉から名古屋をゆっくりドライブするという行程になった。ハネムーンの定番、日南海岸(古いかな)やハワイ旅行などのロマンチックな景色には縁のない、10月の日常風景が私たちを迎えてくれた。
二人でドライブできるだけで嬉しい。見えるものすべての感動を二人で分かち合った。車中では賛美歌も一緒に歌った。中央高速道路を西に走ってから、蓼科、白樺湖、天竜川、三ケ根山などに泊まりながら名古屋方向に南下した。
「夕食をどこで食べようか」「素敵なレストランがいいわ」「よし、探してみよう」当時インターネットはないので検索もできず、運転しながら沿道の店を探すしかなかった。日は暮れる、お腹は空く、店は見つからない。この三拍子がそろえば、当然口喧嘩になる。結局見つかったのは、陰気なそば屋だった。料理を待つ間、洋子の浮かない顔を見て、私はつい強く言ってしまった。結婚式までの疲れもたまっていたのだろう。会話は途切れ、そばをすする音だけが耳に残った。(結婚する前はもっと優しかったのに、と洋子はこのとき後悔したようだが、もう返品はきかない)
翌朝、天竜川沿いを南下する際、川に近ければ景色が良いはずと私は細い道を選んだ。ところが土砂降りの雨に見舞われ、対向車とすり替われないほど道幅は狭くなり、最後は砂利道を走ることになった。周囲に霧も出てきた。川を見下ろすと茶色の濁流がごうごうと音を立てている。ガードレールのない道なのでスリップしたら間違いなく終わりだ。何だか無性に情けない。
そんな時、濁流に架かる吊り橋を見つけた。もう破れかぶれだ。小降りになった雨の中、三脚にカメラを取り付け、二人で記念写真を撮った。現像した写真を後で見たら、新婚旅行で一番良い写真になっていた。実際のところ、前日の<そば屋事件>を引きずりながら、荒れ狂う川にガタガタ震えていたのに、幸せそうに写っていた。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
「ほー、結婚したてか。新婚はいいな。まっ、頑張れよ。」近所に住む中年男性は、私たちが挨拶回りで訪れた際に笑いながら言ってくれた。新婚とは、良いものなのか?
私が奉仕していた教会には国内外を問わず、お客さまが多く、洋子は毎日のように教会で牧師夫人の指示に従い、様々な用事をこなしていた。疲れた夜には料理作が待ち構えていた。きちんとした夕食を出さなくちゃと、洋子は料理本と格闘した。新婚当初に限って言えば、努力と結果は比例しなかった。「何を食べても、おいしいね」という熱々ムードにも、水を注す事件が発生。「どう、味は」、「うん、食べられるよ。これ、何という料理」。洋子も私の反応を見て、落ち込んだりした。シシャモを焼きすぎてカチカチになった時に私は強く文句を言ってしまった。でも今ではこれも笑い話。結婚25年を過ぎた、洋子の料理は世界一おいしい。
私のほうは副牧師として多忙を極めていた。特別伝道集会の講師として人気の高い主任牧師のスケジュール管理や車での同行にかなり気を使った。礼拝メッセージ担当の前日は徹夜するしかなかった。家庭集会が一日に朝・午後・夜と3箇所受け持つ場合もあり、コンビニで肉まんを買い、車中で食事代わりに詰め込む場合も多かった。帰りが深夜になる場合もあり、洋子に「電話してくれればいいのに」と言われてしまう。その通りなのだが、当時は携帯電話などもなく、ついカチンなって口喧嘩に発展した。<新婚はいいな>と言われたのだが、喧嘩が絶えない毎日で、結構きつかった。
ある日私が家に帰ると、「ごめんなさい」と洋子が言う。「どうしたの」「あなたに言わなくちゃいけない事があるの」「……(ついに来るべき時が来た)」「実はね、お饅頭を買ったの。一つ食べたらおいしかったので……」「うん」「気がついたら2個入りパック全部食べてしまったの」「へー」「証拠隠滅して、袋もゴミ箱に押し込んだの」「うん」「そういう自分が嫌になって、あなたに本当の事を言うことにしたの。ごめんなさい」僕は笑った。「そんな事、どうでもいいのに」「だって、言いたかったの」やっぱり新婚って、いいのかな。
小さな事についても神の前で誠実に生きようとする洋子。妻から教えられ続けた25年間でもあります。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1:9)
まだ甘い新婚生活は続いている。休日は二人で公園によく出かけた。テニスをしたり、散歩したり、木陰にシートを敷いておにぎりを食べた。見つめ合い、笑い合った。
「どうしたの、おにぎり食べないの」
「今日は何だかムカムカして、食欲ないんだ」
「ふーん、珍しいね」
しばらくして洋子は医者に行き、診断結果を教えてくれた。ちょっと下を向きながら、しかも微笑みながら言った。「赤ちゃんが与えられたみたい」「えっ、ほんと、すごいね、神さまに感謝だね」
私と洋子の生活は、これを境に出産体制に徐々にシフトした。テレビドラマのように、洋子につわりが来た。炊飯器でご飯を炊くにおいが駄目だった。好きだった食べ物も体が受け付けない。不思議なことに、スイカはOKで、洋子の妊娠期間の主食になった。発作的にラーメンが食べたくなり、店まで一人で歩いて食べに行ったと聞いた時は驚いた。ラーメン屋まで実に遠いのだ。
お腹が目立つようになったある夜、洋子は真剣な顔で言った。「私、今、小僧寿司が食べたいの。お願い、買ってきて」時計を見ると閉店間際、車を飛ばして店に駆け込んだこともあった。
女性というものは、体の変化を日々感じながら母になる備えをする。一方の夫たちはバスに乗り遅れたサラリーマンみたいなもので、やることがない。父親の自覚も出てこない。それで、洋子の読んでいた出産関係の書物を借りて勉強した。当時は珍しかったラマーズ法の出産にチャレンジすることになり、夫も研修会への参加が義務づけられた。気が進まないまま教室に入ると関取のような女性が多数いて、たじろいだ。お腹をさすりながら「ヒッヒッフー」と呼吸法の練習をさせられた。「はい、声が小さいわよ、お父さんもしっかりやりなさい」と先生に檄を飛ばされた。父親になるのも大変だ。
私たち夫婦は新しい命の誕生を祈ってきたので、妊娠が分かったとき主をたたえました。命は神から来るのです。生まれて来る子も神によって造られた。私も神に造られた存在。だから、この世を去る日まで神をたたえていきたい。「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(詩篇139:13)
赤ちゃん誕生に備え本を読み、にわか勉強したが、驚きの連続だった。羊水は胎児を外部のショックから守る。出産の際にはホルモンの効果で産道は柔らかくなる。胎児の頭蓋骨は柔軟で、産道に合わせて形を変え、頭を回転させながら出てくる。神の創造のみわざに驚嘆するばかりだ。「つわり」もマイナス要素ばかりでなく、母親と周囲の者が妊娠を意識し、母体をいたわるようにとの神の配慮なのかもしれない。
1月の寒い時期だったが洋子は教会の婦人会で午前中聖書を学び、夕方、荷物を持って病院に入った。出産は翌朝になるというのが医師の予測だ。私も病院に泊まり込み、陣痛の周期を時計で測り分娩室に行くタイミングを探った。痛みが来るたびに、私は洋子の背中をさすった。突然妻は食べたものをもどしたが、とっさの事だったので私は手を差し出して受け止めた。後で、洋子に何度もそのことを感謝された。(たまには点数上げないとね)
出産に立ち会うことにしてあったが、医師は「旦那さんのことまで面倒見られませんよ。この前の男性は分娩室で倒れて困りました。そういうことのないように」と私に釘を刺した。明け方に分娩室に入り、妻の背後に立った私はかなり緊張していた。私は心で祈った、<主よ、洋子が無事元気な子を産めますように。それと、私もぶっ倒れませんように>。
いよいよ出産の時が来た。妊婦学級で習った「ヒー、ヒー、フー」が始まり、私も一緒に声を出した。眠さも吹っ飛んだ。「そこだ、それー」と私は思わず言ったが、先生に「今、じゃない」とたしなめられ、ギャフン。やがて赤ちゃんが生まれて来た。最初の泣き声だ。「女の子ですよ」と看護婦が教えてくれた。人生で最高の感激を味わった。その後、きれいに処置された赤ちゃんが洋子の横に寝かされた。まだ目が見えるはずはないのに、片目を開けてこちらを見ていた。「はじめまして、お父さんとお母さんだよ、よろしくね」洋子と私と赤ちゃんの三人だけになった分娩室で、私たちは喜びと感激の中で静かに祈りをささげた。
命は人間が造ったものじゃない。これが出産の一部始終を見守った私の感想です。「あなたの御手が私を造り、私を形造りました。」(詩篇119:73)偶然ではない、人間の計画でもない、私たちは神に造られたものなのです。「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」(詩篇100:3)
赤ちゃんがいるということは嬉しい反面、大変でもある。洋子は、夜の授乳で睡眠不足だし、慣れない育児で疲れている。私も、仕事の疲れを引きずりながら、娘をお風呂に入れたり、夜泣きで起こされて文句を言ったりした。だから、ささいな事が喧嘩に発展する。そんなとき、役立ったのが夫婦喧嘩のルールだ。

1、
昔の事は持ち出さない
2、
親、兄弟の悪口は言わない
3、
暴力は絶対にふるわない
4、
身体的、人格的な悪口は言わない
5、
次の日まで解決を持ち越さない
6、
一つの事柄に集中して意見調整をする
これは結婚前にセミナーで習った「夫婦喧嘩十戒」の一部。クリスチャンの結婚関係専門家から学んだ内容だが、詳細は忘れてしまった。今、思い出せるのは以上の6項目だ。たぶん、重要度が高いから覚えているのだろう。このルールは大変に有効で、実証済みだ。
一般的に言うと、人は形勢不利に陥れば相手の過去を引きずり出す。たとえば、「あなただって1週間前、同じ事をしたじゃないの」と言えば、「2ヶ月前に頭下げたのはどこの誰だ」となり、「そこまで言うなら50年前はどうなのよ」となる。健忘症だったはずが、驚くべき記憶力が蘇る。
「そういうモノの言い方は、お前の母さんそっくりだ」と親の悪口を言われたら、「あなたのお母さんほど下品じゃないわ」と言い返したくなるのが人の常だ。
暴力は絶対禁止。手を出してはいけない。場外乱闘は試合続行不可となる。相手の人格を馬鹿にするなら、それは言葉の暴力だ。「あんたは、無能よ。」と言われたら、立つ瀬がない。感情的になって、同次元で応酬するだけになる。今、問題となっている事柄だけに集中し意見交換を行うのが正しい夫婦喧嘩だ。相手の言い分に誠実に耳を傾けよう。自分の意見を粘り強く説明しよう。そして、寝る前までに解決しよう。持ち越すと、意固地になり長引く。
私たちは、このルールに従って正々堂々と喧嘩したので、就寝が朝の3時や4時になった。若かった。でも、それで良かった。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4:26~27)
娘が生まれて1ヶ月過ぎた2月の寒い朝、私と家内は顔を見合わせた。赤ちゃんの両手が紫色になっている。娘は手を布団から出して万歳の形で眠っていたが、夜間の室温低下で冷え切ってしまった。

私たちの新居は、締め切った部屋にいても隙間風を感じさせるような古い木造家屋で、横と裏手には畑が広がり、北風をまともに受けていた。東側に大きな屋敷森があったので昼ごろまで日は当たらなかった。
その朝、娘の手に触れてみたがびっくりするくらい冷たい。「ごめんね。寒かったでしょ。」私はその日、休みだったので、町に出かけ赤ちゃん用の白い手袋を買って来て、その晩から手に付けてやった。
その家は、六畳と四畳半、小さな台所と風呂があり、トイレは水洗ではなかった。水道は、井戸水を小型モーターでくみ上げて使った。冬の間は外水道が凍りつくので、午後2時を過ぎないと洗濯機は使えなかった。
貧乏生活が続いていたので、赤ちゃんのベビーベッドを買うこともできず、「寝返りもしないから、ベッド代わりにコタツの上に布団を敷いて寝かせておこう」と夫婦で名案を思いついたが、妻の洗濯中に娘は見事に畳の上に落ちた。泣いた時に両足でふんばって体が動いたのだろう。「痛かったね。ごめんね。」幸い怪我はなかった。娘は災難続きだ。
それから、妻は本気で祈った。「神さま、ベビーベッドを与えてください。」4月になり、教会の方が「これを使ってください」といって新しいベビーベッドを持って来てくれた。その人は私たちの様子は知らなかった。本当に主に感謝した。
アリやゴキブリに悩まされ、ゴキブリホイホイを仕掛ければネズミが入ってしまうし、台所の天井からは蜘蛛の子供が糸を伝って何十匹も落ちて来た。秋になると夜中にドカン、ドカンと大きな音がして目を覚ましたが柿の実が屋根に落ちたのだと翌朝分かった。
こんな家に住んでいても、赤ちゃんの日ごとの成長は大きな励みになり、嬉しくて楽しくて感謝で一杯だった。テレビもない家だったので、夕食が終わると、毎晩のように妻と私で賛美歌を歌い、共に祈り、何も話せない娘に二人で話しかけていた。私は思うのです。ささやかな幸せが本当の幸せだと。「一切れのパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17:1)
「もしもし、産気づいたようです。病院まで送っていただけますか」私は仕事で他の教会にいたため、妻は教会の婦人の一人に電話を入れた。洋子はまず、準備しておいた荷物を確認した。そして、長女の好物だったふかし芋を容器に入れて持たせ、車を待った。

私は仕事を終え、一目散に車を飛ばした。「俺が行くまで。産むなよ。大切な一瞬に立ち会うぞー」願いもむなしく、病院に着いて30分で出産。安産だった。私がだいぶ遅れて病院の待合室に入ると、教会の婦人方に笑顔で歓迎された。「おめでとうございます。男の子です。先生より先に赤ちゃんを見たらいけないと思って、ここで待っていました。」本当に遠慮深いんだから!いじらしいくらいの配慮に感激した。婦人の方々がずっと長女の世話をしていてくれた。長女もふかし芋を食べながらママとの分離に耐えていた。
副牧師としての働きを3年で終え、別な教会の牧師として就任し数ヶ月たった頃の出来事なので、息子の誕生は教会全体の喜びとなった。
生まれた赤ちゃんは実に良く眠る子供だった。うんともすんとも言わずにスヤスヤと眠った。オムツが濡れても眠り続けた。それが高じたのか高校生になっても良く眠った。
長女は最初「アーチャン」と呼んで新生児をかわいがっていたが、両親の関心が二分されたのを感じて情緒不安定になり、ぐずったりした。無理もない、1歳8ヶ月でお姉さんになったのだから。
そんな時、先輩の牧師さんから良いアドバイスをもらった。「極端な言い方をすれば、下の子は捨ててもいいと思うくらい上の子を大事にね。」下の子を捨てるというのは少々乱暴だが、ポイントをついた言葉だ。親はどうしても乳児に関心が向かうので、意識して上の子を大切にするという意味だろう。私は、長女だけを連れ出し、何度も公園で遊んでやった。そうすると不思議なことに、前のように落ち着いた子に戻った。
どちらがかわいいか、と聞かれたら、それは愚問だと思う。どちらも同じくらいかわいい。どの親も同じ感想だろう。
聖書にこういう言葉がある。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(第1テモテ2章4節)
あなたがイエス・キリストを信じて救われることを、神は心から願っている。そこには、えこひいきも区別もない。すべての人の幸せを願っておられる。
(クリスマスに寄せて)
林竹治郎
が描いた「朝の祈り」(油絵、50×90センチ、1906年、北海道立近代美術館所蔵)という絵がある。丸いちゃぶ台を囲んで、お母さんと4人の子供が正座して祈っています。今年のクリスマスシーズン、なぜかこの絵が心に思い浮かんできました。
絵の背景には青く塗られた壁があり、左手の窓からは朝日が差し込み、使い込んだ赤茶色のちゃぶ台が印象に残ります。学生服を着た男の子が聖書に手を置いて祈っています。普通なら難しい年頃なのに、素直に祈っています。ちゃぶ台に乗っている聖書はこの1冊だけで、きっとお兄ちゃんが聖書を朗読し、みなが耳を傾けていたのでしょう。たとえ貧しくてもみんなで祈り合える家族は何と幸いなことでしょう。
日本で牧師をしていた時、教会員の男性の一人が「朝の祈り」の絵に触れ、「絵の中でお母さんの膝に頭を付けている末っ子がいるでしょう。この子が、私のおじいちゃんです」と教えてくれました。末っ子の名は林文雄、ハンセン病に苦しむ人のため施設を作り、生涯をささげました。
「子らに残すことばはひとつ、わが家は、朝な夕なに祈りする家」という林竹治郎の言葉は子供たちに引き継がれていったのです。
今年のクリスマス、この絵を思い出したのは、「朝の祈り」に描かれた貧しい家庭と、主イエスがお生まれになった貧しい家庭とが私の頭の中で勝手に重なったからでしょう。
主イエスは神であられる方なのに、人となってくださいました。当時のユダヤ人は最初に生まれた男子のために神殿で子羊をささげる習慣がありました。「もし、彼女が羊を買う余裕がなければ、2羽の山鳩か、2羽の家鳩」(レビ記12:8)でも構わないと但し書きが聖書にありますが、ルカ2:24によるとヨセフとマリヤがささげたものは鳩であることが分ります。貧しい家庭だったのです。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」(第2コリント8:9)
クリスマスです。貧しくなられたイエス・キリストに感謝しましょう。「自分を卑しく」(ピリピ2:8)して人になられた主イエスをほめたたえましょう。
「お父さんも、イエスさましんじているの?」と2歳9ヶ月の長女がまじめに聞いてきた。牧師である私は笑いをこらえながら、「そうだよ。お父さんもイエスさま信じているよ」と答えた。それが1985年10月13日の日曜だということも分かっている。
妻の洋子は、生まれて来た子供のために1冊ずつノートを作り、最初に発した言葉はもちろん、折々の楽しい言動を記録してきた。このノートは今では黄ばんでしまったが、我が家の宝であることに間違いない。
子供が小学生の頃、夕食の席でこのノートを引っ張り出すことが度々あった。子供たちは、文字通り腹を抱えて笑い出し、「もっと教えて」、「僕はどうだったの」と質問をたたみかける。「最初にあなたが言った言葉は<マンマンマ>と<バ・バ・バ>だった」と娘に教えると、面白そうに聞いている。
「お前は、つかまり立ちができる頃になると、普通のハイハイをしないで、まるで水泳のバタフライのように前進した。オットセイみたいだったぞ」と息子に言うと、笑いこけて椅子から落ちそうになった。
娘が2歳8ヶ月の頃の記録として、「感謝のお祈り、しようか」が口癖になったと書いてある。毎日、夕食後の家庭礼拝で一日に起きた感謝な事を3つ言うのが我が家の家庭礼拝のルールになっていたせいだろう。
ある日のこと、娘は牧師館の外階段で転落した。鉄製の階段の下から4段目あたりから足を踏み外して、階段を転がり落ちた。下はコンクリートだったので、大事を取って医者に診てもらったが幸い問題はなかった。
その夜の家庭礼拝で、娘はこう言った。「階段から落ちて、感謝!」この言葉を聞いて、私と妻は胸にぐっと来るものがあり思わず見詰め合った。階段から落ちて痛かったけど、神さまが守ってくれたのでひどくならずに良かったという意味だろう。親でも言えない前向きな言葉を聞き、娘から教えられた気がした。
旧約聖書に次のような言葉がある。「この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。」(申命記8:2)神はイスラエルの民をあらゆる災いから守られた。我が家には子供一人一人に思い出ノートがあるが、神の記憶の中にはもっと精密で愛のこもった記録があるはずだ。神は私たちの思い出ノートを開いて、一つ一つを分かち合いたいと願っておられる。人生を振り返り神に感謝しよう。
賛美が始まるとAさんの歌声が聞こえてきました。社会的地位も財産もある、立派な熟年紳士が感極まって泣いています。日本で出会ったこの男性を私は心から尊敬し、彼の涙を美しいと思いました。賛美歌の歌詞に、イエスの十字架、罪の赦しなどの言葉が出てくると、彼は礼拝中に必ず泣きました。悲しみと喜びが入り混じった涙がとめどなくあふれました。
Aさんがイエスさまを信じたのは人生のたそがれ時に差し掛かった頃でした。昔、世話になった宣教師がアメリカに帰るというので義理で礼拝にやって来たのがきっかけです。脳卒中発作の後遺症と思われる手足の麻痺や発声の困難さを抱えていましたが、礼拝堂の座席に座り、賛美歌を歌い、聖書の話を聞くにつれ、心に変化が起きたようでした。
次の日曜には自分でタクシーを呼んで礼拝に来られました。何度か礼拝に来られた後に、私は彼と入門の学びを始めました。要点を突いた質問をよくされました。主イエスの十字架の救いの勘所をしっかりと受け止め、罪を認め、イエスさまを自分の救い主として信じました。それからです。彼が礼拝で涙を流すようになったのは。
ある朝、彼はいつものように自宅で聖書を読み祈っていましたが、心に示されたことがあり、実行に移しました。仲たがいしていた親戚のところに出向き、頭を下げ、かつて自分が行った非礼を心から詫びたのです。彼はすでに地上を去った人ですが、私の記憶に鮮やかに残っています。
自分の罪というものは、本人にしか分かりません。蓋をすることもできますし、忘れ去ることもできます。皆がやっている事だとうそぶくこともできます。本当に勇気ある人は、自分の罪を認める人です。自分がひどい人間だと気づくことは、新しい人生に踏み出すためには避けて通れない道なのです。Aさんは、人生のたそがれ時を前にして、やり直しをすることができました。みごとな決断、男らしい生き方です。
「
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」(ルカ18:13)
昔は良い夫ではなかった、と今になって思う。30歳前後の私は、日本で牧師として精一杯働いていた。その面では評価されるかもしれないが、夫としては落第だ。
礼拝メッセージの準備で納得がいかない。だから土曜の夜はたいてい徹夜だった。ウィークデーは、家庭集会や祈祷会、聖書研究、入門クラス、訪問、カウンセリングなどで目がまわるようだった。他教会と協力して行う中高生キャンプは年に2~3回実施、その準備やスタッフ育成もしていた。
家内は小学1年の娘と幼稚園の息子を世話し、家事と教会の雑事をこなし、けなげに私を支えてくれた。けれども私には妻に対する感謝が欠如していた。
当時所属していた教派の海外宣教委員長に選ばれた後は、さらに責任とストレスが加わった。海外で働く宣教師を支えるという仕事は思った以上に重く、不備があれば様々な批判を受けた。日本各地から集まった代表者との会議を終え、電車で最寄の駅に戻ると、洋子が車で迎えに来てくれた。私は、その妻に、「ありがとう」の一言も言わなかった。車に乗り込んだ私は、今後の対策で頭が一杯で不機嫌そのものだった。
委員長としてのシンガポール出張が決まった。経費は後払いなので、費用を工面するしかなかった。貧しい家計には負担が重く、小銭まで集めてやっと支払いができた。財布は空っぽのくせに家内は、「大丈夫、あとは心配しないで」と笑顔で送り出してくれた。
私の留守中、夫の暴力に耐えかねて家を逃げ出した母と娘が教会を尋ねて来た。家内は二人を我が家に何日も泊めて親身になって悩みを聞いた。
私が帰国してすぐ家内は急性腎炎で入院した。無理もない。体が赤信号を出したのだ。入院は1ヶ月半に及んだ。
母親を恋しがる子供二人の面倒を見ながら、私は慣れない食事作りを始めたが、心の中で自分を殴りつけていた。俺は、何てひどい夫なんだ。洋子をこんな目にあわせて。自分のストレスが何だ。自分の忙しさが何だ。教会の人々の面倒ならいくらでもみるくせに、大切な洋子をこんなにしてしまって。
私は自分が恩知らずだと思い知った。それに引き換え、洋子は優しく、温かい。思いやりが前面に出ていた。
「なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」(ルカ6:35)

「オレンジの香り」は、オレンジコーストフリーメソジスト教会の月報に連載している原稿です。
おもに私の高校時代、大学時代、神学校生活、結婚などについて書いています。
オレンジコーストフリーメソジスト教会の仲間は、私の文章を読んで、「おもしろい」と励ましてくれます。なかには、「平湯先生は、自分を加山雄三かなにかのつもりで書いてますね」とからかわれています。
主は生きておられる、それが私の信条です。だから、私の普通の生活の中で主がどのように働いておられるかを紹介したいのです。